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社号 神明神社
読み:シンメイ
所在地 兵庫県豊岡市日高町石井246
旧地名 気多郡太多郷石井村
御祭神
主祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
配祀神 市杵島命(いちきしまひめのみこと) 劔太刀日嗣御神(つるぎたちひつぎのかみ)
例祭日 10月17日
近代社格制度
創建
本殿様式
江原駅(兵庫)から、駅前の通りを120m進み、江原駅前(交差点) を右折して国道312号線に入る。
450 m進み、但馬日高郵便局前(交差点)を右折してそのまま 国道312号線 を650 m進む。
岩中(交差点) を右折して、そのまま国道312号線 を300 m進み、祢布(交差点)を左折して、国道482号線 に入り、北西に6.0 km。石井区広場の南。
ひとりで神社の参道を歩いていると、神社の世話をされているらしい地元の年配の方(85歳)が近づいてこられた。不審者もいるので日中に一人でうろうろしている人間がいればご心配なのかも知れないがよく分かる。他の神社でも不審がられるのは慣れているので、地元の方を見かけたらあいさつし、しっかり参拝も欠かずしている。(神社で出会った方にはあいさつするのは当然ですが…)神社を調べているというと、親切に説明してくださり、本殿を開けて入れて下さった。彫刻が見事で、文化財にしていされてもいいぐらいで良い物をみせていただけた。石井というから石作部が石を採取していたのか尋ねると、石を採っていた場所があると聞いたことがあるが、よくわからないとのことだった。
『国司文書 但馬神社系譜伝』『国司文書 但馬故事記』に記載されている式内社以外の神社(式外社)に、気多郡の歴史を紐解く手がかりがあるかも知れないと思う。
『国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記・上)は、人皇第十代崇神天皇の御代、彦坐命と丹波の陸耳・土蜘蛛の話、人皇第十五代神功皇后と新羅征伐が詳細に記されている。
また、軍団のようすが詳細に残されている。
人皇第三十七代孝徳天皇大化三年、
多遅麻国気多郡高田邑に於いて、兵庫を作り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以て軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を菅(つかさ)どる。
(中略)
伊多首(おびと)の裔、貴志麻侶、葦田首の裔、千足、石作部の裔石井、日置部の裔、多麻雄、楯縫首の裔、鉾多知、美努連の裔、嘉津男等を以て隊正*1と為す。…
*1隊正
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
というのも、石井区に隣接する十戸区の戸(トノ)神社は、将軍田道公の神霊を止美丘(に斎き祀り、これを戸神社と称す。
…その他、矢作神社・栗栖神社等を旧に依り、之を復す。(十戸は止美の転音なり。今十戸村と云う)
戸神社はこれが、鎮座のはじまりのようなので、石作部の裔石井と豊岡市日高町石井は関係しているのか。と思ったからである。
創立年月不詳
寛文5年(1665)、延宝2年(1674)、文政2年(1819)本殿を造立し寛文(1661~1672)の頃には、玉之森大明神と称したり。
明治6年(1873)10月村社に列し同41年(1908)厳島神社、太刀宮神社を合祀せり。
-「兵庫県神社庁」-
参道・鳥居 神門
本殿覆屋 本殿
石井(いしい)
文献に最初に現れるのは、
国司文書「但馬国郷名抄」 天延三年(975)
太多郷山守郡、
山守郡は今の山宮、太多村は太田、止美村は十戸、石井はこの石作部ではないかと思われる。石部と石作部は同義。
国司文書「但馬故事記」
人皇三七代孝徳天皇大化三年、多遅麻国気多郡高田邑において、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、もって軍団を置き・・・伊多首の裔 貴志麻呂、葦田首の裔 千足、石作部の裔 石井、日置部の裔 多麻雄、楯縫首の裔 鉾多知、美努連の裔 賀津男等をもって隊正※1となす。
この石作部の石井がのちに人名地名となったのかも知れない。
※1隊正(たいしょう) 軍団については久斗寸兵主神社を参照されたし。
「兵庫県神社庁」