村社 花岡神社(式内 佐伎津彦命阿流知命神社論社)
Contents
概 要
社 号 式内社 但馬国養父郡 保奈麻神社(論社)
読み:古 ホナマ 現在 はなおか
所在地 兵庫県養父市八鹿町坂本字宮ノ下650-1
旧地名 但馬国養父郡淺間郷
御祭神 不詳
「国司文書 但馬神社系譜伝」紀臣命
例祭日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
式内社
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 流造柿葺
境内摂社(祭神) 稲荷社
一口メモ
坂本は右岸道路が出来てしょっちゅう通っているが、集落に入るのは今回が初めて。坂本集落は大きく、山を挟んで北にも坂本が広がる。
式内 保奈麻神社は現存せず、不明な式内社である。
保奈麻神社論社は下記の通り4社ある。
「佐伎津彦阿流知命神社は養父郡坂本花岡山鎮座」とあることをみると、どちらかというと花岡山の麓にあるのが当社で、佐伎津彦阿流知命神社の元の鎮座地に近い。保奈麻神社論社ではなく佐伎津彦阿流知命神社ではないか。「国司文書 但馬神社系譜伝」には、保奈麻神社は養父郡大江村鎮座とあり、大江には春日神社が現存する唯一の社である。
歴史・由緒等
花岡神社 由 緒
主祭神 不詳
創立年月不詳慶応4年(1868)本殿を改築し明治元年奉祭の棟札を伝えたるは新に神霊を勧請したるものなるべし。
明治6年(1873)10月村社に列せらる
-「兵庫県神社庁」-
『式内社調査報告』に記載されている『養父郡誌』に、「往古コノ附近ノ名ヲ(ホナマ)と称セシモ、通称ヲ(コナハ)ト呼ベリ」とあり、式内社・保奈麻神社の論社となっているらしい。
保奈麻神社論社
花岡神社 祭神 不詳 村社 養父市八鹿町坂本字宮ノ下650-1
五社神社 祭神 五社大神(ゴシャノオオカミ) (岩崎)
養父市八鹿町岩崎270-1
春日神社 祭神 彦火瓊々杵命(ヒコホニニギノミコト)配祀神 天津児屋根命(アマツコヤネノミコト) 村社
養父市八鹿町大江542-1
大歳神社 朝来市和田山町土田
坂本・大江・岩崎の三村は岩崎の谷と大江の谷が坂本に集まり深く広大である。花岡神社はその合流する中間にある。
「国司文書 但馬神社系譜伝」
浅間郷 保奈麻神社 養父郡大江村鎮座
祭神 紀臣命
人皇四十代天武天皇の十二年冬十月、養父郡司保奈麻臣これを祀る。
武内宿祢は、紀の角宿祢の裔 紀ノ臣は百済にあり。欽明天皇の御世、同族四人・国民三十五人を率いて帰り来る。
天皇勅して、珍勲臣と称し、三十九人を譯官(おさのつかさ)となしたまう。
時人日譯(おさ)氏と号(もう)す。紀ノ臣の男(息子)は麻奈臣、孫は保奈麻臣。保奈麻は遠佐(ヲサ)郷を開く。
浅間郷 佐伎津彦阿流知命神社 養父郡坂本花岡山鎮座
祭神 佐伎津彦・阿流知命第四代懿徳天皇(いとくてんのう)の二十年夏四月、屋岡県主 大照彦命、これ(佐伎津彦命・阿流知命を花岡山に)を祀る。
佐伎津彦命は佐久津彦命が佐々宇良姫命を娶り、生むところなり。
阿流地命は、佐伎津彦命が真名井の天物部命の女(むすめ)・佐伎津姫命を娶り、生むところなり。『国司文書 但馬神社系譜伝』
以上の2つから、保奈麻神社論社として花岡神社(坂本)、春日神社(大江)、五社神社(岩崎)の三社が挙げられているが、『国司文書 但馬神社系譜伝』に従えば、保奈麻神社は養父郡大江村鎮座で、佐伎津彦阿流知命神社は養父郡坂本花岡山鎮座とある。とすれば、花岡神社は保奈麻神社論社というより、花岡神社こそ佐伎津彦阿流知命神社の鎮座地に近く、春日神社が大江鎮座の保奈麻神社として濃厚な感じがする。
どういうわけか同じ養父郡糸井寺内の佐伎津彦阿流知命神社が式内社とされ、他に論社はない。延喜式神名帳が記された延長5年(927年)の頃には、養父郡糸井郡の今の場所にあったのかも知れない。同様に不思議な糸井郡にあるはずの楯縫神社が、なぜ建屋になったのか?ひょっとすると、養父郡の軍団が糸井郷から遠屋(建屋)郷へ遷り、楯縫神社も遷座してそのあとに浅間郷の佐伎津彦阿流知命神社が遷ったのではないかという仮説をすると頷けるのであるが。
『国司文書 但馬神社系譜伝』の浅間郷には、
佐伎津彦阿流知命神社は第四代懿徳天皇(いとくてんのう)の二十年に養父郡坂本花岡山鎮座、
保奈麻神社は、人皇四十代天武天皇の十二年に養父郡大江村鎮座、
とあるがどちらもその場所には現存しない。延長5年(927年)にまとめられた「延喜式神名帳」に式内 佐伎津彦阿流知命神社は養父郡糸井郷(今の朝来市和田山町寺内435)となっているが、『国司文書 但馬神社系譜伝』天延3(975)には、糸井郷に記載なく、浅間郷となっているのは誤記ではないはずだ。詳細に『国司文書別記 郷名記抄』にも糸井郷と記されてある。
地理的には、坂本花岡山に鎮座とあるから、山上に鎮座していたが、麓の坂本・花岡神社に里宮として遷座されたものではないか。式内保奈麻神社は、人皇四十代天武天皇の十二年に養父郡大江村鎮座とあるので、どちらかといえば、春日神社ではないだろうか。
境内・社叢
社頭 本殿
境内社
地名・地誌
『国司文書別記 郷名記抄』(天延三年・975)
遠佐郷
和奈美村・朝倉・保奈麻村・国棺村(省略)
浅間郷
『国司文書別記 郷名記抄』
稲栄大生原(イサナノオホヒハラ)(今は伊佐大恵原という)
佐伎津比古・阿流知命開発の地なり。佐伎津彦命は、気多郡佐々前(ササノクマ)の県主・佐久津彦命の御子。阿流知命は佐伎津彦命の御子なり。故に佐伎津彦阿流知命神社をこの地に鎮座す。花咲津墾山にあり。
大恵保・船山・小田・兵庫村・伊久刀村・新美寺・大蔵村・田中(省略)
『校補 但馬考』(明治27)
浅間郷
村数十二
上小田・下小田・伊佐・坂本・大恵(大江)・岩崎(イハサイ)・浅間・宿南(シクナミ)・青山・深谷(三谷)・赤崎・浅倉
「校補但馬考」の浅間郷には、太田文*1曰く、大恵(オホエ)、大恵本郷、今は大江と云って一村なり。岩崎(イハサイ)村、與垣(ヨカイ)村、今は坂本の枝村なり。
*1 『但馬国太田文』弘安八年(1285)
伊佐
伊佐の地は、中古荒蕪して居民なし。小田備州公の時、臣の祖父墾闢して新田とし、耕す者来たり集まり、ついに一村となる。その始まり延宝二年より今年(明治27)に至りて、78年なり。往古は小田村に属せりと見えたり。然るに、大恵は最も古きなるにや、今に至りて、すえてこの辺を大恵の保内(ホウナイ)と称す。
(以上)
『国司文書別記 郷名記抄』(天延三年・975)稲栄大生原(イサナノオホヒハラ)(今は伊佐大恵原という)をみると伊佐と大江は一括りのつながりがあるので、桜井勉の『校補 但馬考』の「往古は小田村に属せりと見えたり」は単なる想像の域であると思う。円山川を隔てて伊佐が小田の新田と考えるより、川伝いの伊佐と大江の繋がりの方が自然である。
『国司文書別記 郷名記抄』(天延三年・975)から『但馬国太田文』弘安八年(1285)まで310年経ってる。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
但馬の神社と歴史三部作
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