村社 荒神社(豊岡市日高町江原)
Contents
概 要
社 号 荒神社
読み こうじんじゃ
『日高村郷土誌』には、村社 荒人神社
所在地 兵庫県豊岡市日高町江原225
旧地名 但馬国気多郡高生郷江原村
御祭神
主祭神 奥津比古神(オキツヒコノカミ)
配祀神 奥津比売神(オキツヒメノカミ) 火結神(ホムスビノカミ)
『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、
威田臣の祖・威田臣荒人(いだおみあらびと)
『日高村郷土誌』には、須佐之男命(すさのおのみこと)
例祭日 10月17日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式
境内摂社(祭神)
境内社 金刀比羅神社・賽神社・稲荷社 境外社 天満宮
一口メモ
国道312号但馬日高郵便局交差点のすぐ南隣に参道鳥居がある。
子供のころは、遊びにたびたび訪れた神社である。神社の脇道を降りたところに円山川の渡し船があった。
平成16年(2004)の台風23号により、浸水被害を受けた。
歴史・由緒等
由 緒
創立年月不詳明治6年(1873)10月村社に列せられ大正5年(1916)本殿を再建せり。
-「兵庫県神社庁」-
当社は江原村百十八戸の鎮守神にして、村字東幸ノ神に鎮座す。
元当地は、前野但馬(守)長泰以来代々の請所にして、請所高70石と定められたり。(村名起源の部参照)
しかして当社の祭典費用は凡そこの請け高の内にて支出するの例と為りいたり。
宝暦九年書上には
一 荒神小社 五尺四方
一 稲荷小社 二尺五寸四方
右は凡そ1050年祭以前に勧請と申し伝える。社人別当無し、村支配に仕える。
とあれど、果たして年紀の上に誤りなきやは明らかならず。
境内坪数 236坪『日高村郷土誌』
奥津日子神、奥津比売神は大年神の御子で、『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。日常の食べ物を煮炊きし、命をつなぐ大事な竈(カマド)を司る神。奥津は、カマドの下の燃え残りをオキまたはオキ火ということから生れたと思われ、 大戸の戸は、竃をヘッツイという、そのへであり、ともに竃の神。同じ御祭神では、兵庫県豊岡市日高町十戸の名神大戸神社。嘉麻神社:兵庫県豊岡市上陰。
『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、
古語は多可布。高生郷は、威田臣荒人(いだおみあらびと)の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。
とある。社名の荒神社とは、どこから由来するのか分からなかったが、高生郷を開発した威田臣の祖・威田臣荒人の荒人ではないだろうかと推定できる。威田の臣とは、井田神社がある今の鶴岡は、気多郡日置郷伊福(イフ・いう)村でその田という意味だろう。創建当時の御祭神は、威田臣荒人だったのだろうか。
境内・社叢
鳥居
境内 手水舎
拝殿前狛犬
拝殿 本殿
境内社 金刀比羅神社 祭神:大物主神
賽神社(右)・あと1社(左)
(道路を挟んで向かい)
境外社 天満宮
地名・地誌
高生(タカフ・たこう)郷
『国司文書別記 但馬郷名記抄 第一巻・気多郡郷名記抄』に、
古語は多可布
高生郷は、威田臣荒人(いだおみあらびと)の裔、威田臣高生在住の地なり。この故に高生と名づく。(註:威田は井田。現在の鶴岡の一部)
矢作部(ヤハギベ)・善威田(ヨヒダ)・善原(エバラ)・稲長(イナガ)の4邑。
『倭名類聚抄』(倭名抄)に、
高生(タカウ)郷 訓・多加布
『弘安太田文』に、田107町。
地下(ぢげ)・岩井(今の岩中)・宵田・荏原(江原)の4邑。
岩中・宵田・江原区はそのまま現存するが、地下は今はない。詳しくは別項の地下で記載している。
もともとの大和言葉を漢字に当てたもにに意味はなく、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのが元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた「諸国郡郷名著好字令」(好字二字令、または単に好字令とも呼ばれる)である。
さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされる。
宵田・江原・岩中はそのまま残っている。地下=矢作部であろうが、「兵庫県神社庁」に「旧地下村の氏神と定めたり」とあるので、地下村は、岩中村と合わさり岩中となって名は消滅したようである。今の岩中区の宵田城の稲葉川流域が地下村。国道9号線(山陰道)から分かれる旧国道312号線は、宵田まで円山川に近いが、旧湯島道は、浅倉手前の円山川との狭い箇所(浅倉箒)を過ぎると、やや西に折れて、JR山陰線ガード下をくぐり、稲葉川にかかる浅倉橋を超えると気多郡に入る。岩中区公民館がある道筋がそうで、そこから東に90度曲がり、宵田蓮生寺前を通った。戦後まもなく県道ができるまでは、ここがその旧県道(湯島道)だった。
『紀行文集 筑紫紀行巻之九』 大橋音羽校貞(1869-1901) 東京博文館蔵版
「筑紫紀行」は、尾張の商人菱屋平七(吉田重房)が40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。
一から十巻まであり、巻之九は播磨路を姫路から生野より但馬へ入り、湯島(城崎温泉)を旅して十巻では丹後久美浜から天橋立など丹後一円を訪ねて巻は終わっている。
…五丁計行けば江の宮(今の養父市八鹿町寄宮)村。農家二三十軒あり。冬春は此所より湯島へ渡る船あり。夏秋は水浅きによりて渡さずといふ。
二丁行けば宿南村。農家三四十軒。村はづれに茶屋のあるに立ち入りしばし休みて。平道五六丁行ば。左は岩山。右は気多川(円山川の古称)にて。岩山の裾の川岸の上をば。小坂を登り下りしつつ行く。足いと痛し。此間を岩掃(いははき)*といふとなり。十丁計行けば浅倉村。農家五六十軒。茶屋一軒あり。村の出口に瀧中川*とて。潤十間計の川あるを歩(かち)より歩る。
(*註:岩掃は察すると秀吉の但馬征伐に出てくる旧国道312号線の浅倉箒(ほうき)だろう。瀧中川は稲葉川)二、三丁ゆけば岩中村。農家三、四十軒あり。引き続きて宵田町。(小田村より是まで一里半)上中下の三町あり。商家宿屋茶屋あり。町の中通に溝川あり。引き続きて江原村。人家百四、五十軒。茶屋あり。商家多く酒造の家あり。二丁ばかりゆけば日置村。農家四、五十軒あり。さて神帳に但馬多気郡(※気多郡の誤り)日置神社とあるは。此村にあらざるか。二丁計行ば伊福(イフ)村(鶴岡)。(宵田より是まで半里)農家四、五十軒。商家茶屋あり。宿屋なし。
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