村社 表米神社
Contents
概 要
社 号 表米神社
読み:古 オモテシネ 現 おもてしね、ひょうまい
竹田宮 『国司文書 但馬故事記』
所在地 兵庫県朝来市和田山町竹田
旧地名 但馬国朝来郡賀都(カツ)郷
御祭神 表米宿弥命(おもてしねのすくねのみこと)
例祭日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 江戸末期
本殿様式
境内摂社(祭神)
文化財
兵庫県文化財:相撲桟敷
一口メモ
竹田城跡のある古城山の東のふもと、城下町竹田の南にある。旧国道312号(竹田街道)から1つ入って寺町通りに一の鳥居が立つ。 約600メートルの区間は「寺町通り」と呼ばれ、山名宗全の四天王の一人であり、竹田城の初代城主、太田垣光景の菩提寺常光寺、城主、桑山修理太夫重晴ゆかりの勝賢寺、竹田城最後の城主赤松広秀の菩提寺法樹寺、寛永年間(1624~43)に現在地へ移されたと伝えられている善證寺の4カ寺と表米神社が並ぶ歴史散策路として親しまれている。
歴史・由緒等
由 緒
古来表米大明神と言い伝えいう孝徳天皇の皇子軽の皇子の亦の名にして皇子は性質勇健にして力強かりしも3歳の時故ありて但馬国に流罪となり久世田庄加納田に在る事10年その間粟鹿大明神を信仰し16歳の時勅令により帰洛し新羅の寇賊攻来るに逢い征討の大将に任ぜられ日下部の姓を賜る。凱旋の後、功を以て丹波丹後但馬3ヶ国を賜り白雉4年(653)10月7日加納岡に帰館し朱鳥2年(687)薨去せられしかば加納岡に埋め今に古宮と称す。天平巳年竹田城主太田垣景近社殿を建立して表米親王を勧請し崇敬せしも天正8年(1580)太田垣氏滅亡の時、敵兵のため社殿破壊せらる。故に翌年仮に一小祠を営みたり。その後、朝来川洪水のため地形を変ぜしかば社殿を久世田、竹田の両所に建立し宝永7年(1710)今の地を卜して新たに社殿を造営せり。俗間に一宮と称す。
明治6年(1873)10月村社に列せらる
-「兵庫県神社庁」-
人皇16代応神天皇元年8月 県主武田背命は禾鹿神の託宣に依り、当勝足尼命の子、表米別命をして、神功皇后を禾鹿神の屋代丘に祀らしむ。また水谷神を祀る。これ丹波道主命なり。
40年春3月 県主武田背命は、その娘、武田姫命を表米別命に妻わせ、朝来県主と為す。表米別命は日下部宿祢の上祖なり。竹田宮に在り。
『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記
当社は、南但馬の中で古社であるのになぜか式内社ではないが、青倉さんと親しまれている青倉神社や当勝神社などとともに有名な神社のひとつ。おそらく中世に日下部氏の裔、太田垣氏が竹田城を築いてから、城下の表米神社とともに枚田にある赤淵神社も普請したのであろう。時代的には粟鹿神社→赤淵神社→表米神社の順であろう。
祭神は格技を好んだという表米宿弥命。参道横の広場に相撲桟敷が設けられています。これは全国でも珍しい半円形石積段型桟敷で、正面には舞台もあり、歌舞伎なども上演されたのではと考えれられています。
また竹田街道と寺町通りに平行して走るJR播但線の竹田駅舎は、開業当時の木造建築が残る数少ない明治近代化遺産のひとつ。
祭神は、表米宿彌命(おもてしねのみこと)を祀る。宿彌命は赤淵(あかぶち)神社(枚田)俵米(ひょうまい)神社(久世田)の祭神でもあり、丹後・白井の浜に来襲した新羅の賊を討伐した武人である。神社は宝永年間(1704~1710)にこの地へ移されたと伝えられている。本殿は、三間社流造で、千鳥破風を有している。また、干支を周囲にめぐらせており、その彫刻はすばらしい。
-和田山町(現朝来市)教育委員会-
祭神の表米宿彌命は、格技を好んだとされ、参道横の広場に相撲桟敷が設けられている。これは全国でも珍しい半円形石積段型桟敷で、正面には舞台もあり、歌舞伎なども上演されたのではと考えれられています。 参道横の広場に相撲桟敷が設けられています。
と朝来市には書いてある。しかし半円形ではないが、竹田の東、朝来市山東町三保の八幡神社にも相撲桟敷が残っていた。下記のように竹田は、旧賀都郷で東の旧粟鹿郷とは但馬国あるいは朝来郡の中心地として栄えていた一帯としてつながりが深い。
表米宿彌命
表米(ひょうまい)…表米王から来た氏
宿彌(すくね)…姓(かばね)
命(みこと)…神号
684年(天武13)に、「八色の姓(やくさのかばね)」が制定された。その目的は、上位の 4 姓(カバネ)、つまり真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)を定めることである。真人は、継体天皇より数えて5世以内の世代の氏に与えられたといわれ、皇子・諸王につぐ皇親氏族を特定したので、飛鳥浄御原令で官位を皇子・諸王と貴族(諸臣)とで区別したことと共通する。したがって、貴族の姓(カバネ)としては、朝臣、宿禰、忌寸の三つである。
表米神社と太田垣氏
「校補但馬考」で、(表米王を祖とする)日下部系図を考えるに、表米の次男、正八位下荒嶋と云う者、藤原の朝廷より、奈良の朝廷まで、この(朝来)郡の大領となる。孝徳天皇第二の皇子表米が、異族退治の勲功によって、その嫡子都牟自(ツムジ)と言う者、(養父郡の)小領に任じ、後の岡本の朝己未に大領に専任す。
<日下部系図>略
(1)開化天皇(BC208-BC98)-(2)彦坐王─┬──(3)山代大筒城眞若王-(4)迦邇米雷王-(5)息長宿禰王-(6)神功皇后
└──若筒木王-成務朝賜 但馬国造船穂足尼-但馬国造豊忍別乃君-島根尼君-
(13)日下部
表米王(627-714)-(14)養父郡少領大領都牟自(652-743)-(26)日下部則方・日下部権三郎大夫佐晴・・・
└─朝来郡大領荒嶋
・・・絲井和泉貫主清
秀・三方江大夫清奉・軽部六郎大夫俊通・朝倉余三大夫宗高(越前朝倉氏の始祖)
絲井和泉貫主佐晴の子のひとりが東河貫主季平、小和田大夫清国、朝倉宗高の子が高清、小佐次郎太郎盛高、土田三郎大夫高経。孫が八木安高、その子・八木三郎高吉、宿南三郎左衞門能直、寺木七郎高茂、田公八郎右衞門高時、朝倉高實。
軽部六郎大夫俊通の子・軽部六郎大夫俊家の息子が山本新大夫俊直、建屋二郎俊村、稲津三郎光家
建屋二郎俊村の子に建屋太郎光村、孫に石和田・広瀬の子に太田垣の祖。
など。
朝来・養父の古墳の築造年と日下部氏の北進が合致している。
境内・社叢
日没近くのため、露出不足でピントがぶれています。
一の鳥居 二ノ鳥居・参道
神門 社頭掲示板
拝殿
拝殿 拝殿・本殿
中央の土俵を囲んで半円形に六段の石積。土俵を越えた正面には舞台がある。
地名・地誌
加都・竹田
但馬国朝来郡賀都(カツ)郷
「国司文書別記 第二巻 朝来郡郷名記抄」(970)、「賀都郷」に、秦勝部在住の地なり。故に秦勝部神社あり、秦の酒公を祀る。
秦勝部・建田村・久世田(省略)
「同古事大観録 第三巻」に、
雄略天皇の御世、普洞王の男秦酒公(コハタノサカギミ)奏請して曰く、
「普洞王の時、秦氏は総て却略され、いま現存する者は十分の一も存ぜず」と。
ここに勅使を遣わし、検括招集し、絹職の業に従事せしむ。
天皇すなわち小子部雷(チイサコベ)を差遣し、大隅の阿多隼人等を率いて、捜括鳩集し、秦氏九十二部一万八千六百七十人を得て、これを秦の酒公に附さしむ。
秦の酒公は、これを百八十種に別け、勝部(スグリベ)を定め、部民を率いて、蚕を養(カ)い、絹を織り、匡(キョウ:[竹カンムリ]:竹製で四角い箱)に盛り、闕(ケツ:城門)に詣でて貢献す。その高きこと丘のごとく、山のごとく、朝庭に蓄積す。
天皇これを嘉し、特に窮命を降し、号を賜り、兎都萬佐(ウズマサ=太秦:盛積・利殖の義のこと)という。
但馬国朝来郡に一つの勝部を置き、部民を率い、絹職の業に従事せしむ。勝部は、職工部の長なり。いまは賀都邑といい、郷名となる。
(省略)
朝来郡桑市村の桑は、秦の勝部に賜う。養蚕・製糸の業盛んにして、但馬絹の名は天下に遍(あまね)し。
竹田は古くは建田村と書いた。おそらく桑を植えるために新しく建設した田なので建田であり、のちに竹田と変化したと想像するに相違はないだろう。
桜井勉『校捕但馬考』に、賀都郷
賀都庄(省略)、久世田庄 太田文曰く菩薩院領。(省略)
村数 久世田・竹田・加都市場・寺内・筒江
右 加都庄と云う、また久世田庄と云う。
地 図
交通アクセス
JR播但線「竹田駅」より南西へ500m
周辺情報
竹田城
参 考
「武家列伝」さん、『国司文書 但馬故事記』、『校捕但馬考』、養父市・朝来市・兵庫県教育委員会・兵庫県立考古博物館データベースほか
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