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社 号 軽部神社
読み: かるべ
所在地 兵庫県養父市上箇(あげ)499-2
旧地名 但馬国養父郡軽部郷
御祭神 軽部大神(カルベノオオカミ)
『国司文書別記 郷名記抄』 彦白髮命
例祭日 10月15日
近代社格制度 旧村社
創建 創立年月不詳
本殿様式 流造
旧道から上筒公会堂先を右折すると山裾だが、国道9号線からは上筒交差点を左折。県道6号線を南西に進む。
350 mで右折して県道271号線に入る。
350 m右折し旧道を61 mで左折する。
51 mで右折、120 mで左折、100 mで左折する。安養寺裏手。
『国司文書別記 郷名記抄』
軽部郷は彦坐命(ヒコイマス)の四世孫、彦白髮命の裔・軽我孫公(カルノアビコギミ)開拓の地なり。その部属(トモノミヤツコ)この地に住す。軽部という。軽部神社あり、彦白髮命を祀る。
鳥居 御神木の下に手水鉢
左手境内社・右手本殿
本殿 本殿側面
本殿左境内社
御神木
『国司文書別記 郷名記抄』
養父郡軽部郷(今の養父市広谷地区)
軽部市場・秦伴部・稲津・紆野(ウノ)・上紆野・伊津・熊野十二所村
『国司文書 但馬故事記』
人皇四十五代聖武天皇の天平二年(730)春三月、
多遅麻国造・山公峯男の裔・山公樽男を以って、夜父郡司と為し、
(中略)
十年夏五月、健児所(コンデイ)を廃す。
十一年夏六月、兵庫の百丁を検(シラ)べ、神庫に納め、衛主を置き、これを守らしむ。
十八年冬十二月、さらに兵士を置き、一国の壮丁(ソウテイ)*1を招集し、これに充つ。
先帝元正天皇、天下に令し、地方の荒地を開かんと、「三世一身の制」を定む。
然りと言えども三世尽き終われば、すなわち公に還すの定めなり。これを以って、開発を為すもの少なし。
今帝聖武天皇は、この制を改め、永く私領と為す可(ベ)きの制を定め給う。
これによって、高位高官は伴造・国造等の旧族に至るまで、国守・郡司の官を罷(ヤ)め、その土地に住む。そして私領を召し、粗庸調の役(租税)を免れんため、本籍の人を離して、その耕作に従わしむ。
ここにおいて軽の吾孫(アビコ)等は因幡国より、当国に来たり、軽邑を開く。軽邑部民(カキベ)等、のち改めて、軽部と云う。
軽の吾孫等は、大国主・彦坐命の四世孫、彦白髮命の裔なり。子孫蔓延して聚落(部落)を為す。武屋・乙屋・滝屋等これなり。
軽の吾孫等はその祖・彦坐命四世孫、彦白髮命を各々その地に祀る。
*1 壮丁…成年に達した男子。一人前の働き盛りの男子。 2 労役・軍役にあたる成年の男子。
『校補 但馬考』
太田文 軽部郷
小城(コジョウ)・上(アゲ)・広谷・畑・稲津・上野・十二所・浅野・伊豆・左近山・玉見
養父市沿革
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行により養父郡養父市場村、広谷村、建屋村が成立。
1927年(昭和2年)4月15日 – 広谷村が町制施行して広谷町となる。
1940年(昭和15年)12月11日 – 養父郡養父市場村が町制施行して(旧)養父町に改称。
1956年(昭和31年)9月30日 – 広谷町と建屋村が合併して明神町となる。
1957年(昭和32年)3月31日 – 明神町が(旧)養父町を編入。同日付で(新)養父町に改称。
2004年(平成16年)4月1日 – 八鹿町、大屋町、関宮町との合併で養父市となり消滅。
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軽部村(郷、庄、国)が存在していて現在でも軽部の地名が残っている赤磐市、総社市、和泉市の市役所の研究では軽部姓の高官が存在していて養父市等の多数の土地を拝領していたが寺院等に寄進された
史実となっているが養父市には別名の人が住みついて軽部郷と称しているのは逆なのでは?
軽部憲司様
コメントを頂戴しありがとうございます。
『国司文書別記 郷名記抄』『国司文書 但馬故事記』より引用しております。
赤磐市、総社市、和泉市の研究は存じませんが、「軽部姓の高官が存在していて養父市等の多数の土地を拝領していた」と書かれてあるんですね。
「養父市には別名の人が住みついて軽部郷と称しているのは逆なのでは?」とは、何に対して逆と言われているのかがよく分かりませんのでくわしく教えて下さい。
弁恭天皇が軽部姓を授けられ各地に軽部村(郷、庄)を拝領していましたが養父市だけが別名の軽の翁孫がのちに軽部と称して軽部郷の地名になったのが、先に軽部郷があって領主となつて軽部姓を名乗ったのではと思いました。これまで軽の云々は多数みられるが軽部姓とは無縁です。
総社市の軽部神社は軽部郷の地名から称しているが、養父軽部郷には彦坐命の系譜の人物が軽部郷を収めて軽部六郎大夫(中興武家系図より)と称してその軽部氏の祖となったようですので軽部神社が残っていたのは感激です。有難うございました。