板列神社(板列稲荷神社)
Contents
概 要
社号 板列神社
式内社 丹後国與謝郡 板列神社論社
読み: 古 イタツラ、現 いたなみ
所在地 京都府与謝郡与謝野町岩滝58
旧地名 丹後国與佐郡
御祭神
稲逎売神(いなのひめ・=豊受大神の別名)
例祭日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
與謝郡(ヨサ):20座(大3座・小17座)
近代社格制度 旧村社
創建年 不詳
本殿様式 流造
境内摂社(祭神)
稲荷神社、水無月神社、男山八幡宮
石垣手前右側 先代神
一口メモ
与謝野町役場前を過ぎて男山交差点から左折し府道53号を北へ。次の信号を右へ進むと左北側に大きな鳥居がある。板列公園に隣接した山の端に鎮座。前出の八幡神社の近いところに式内板列神社はあったが、社殿が荒廃したので八幡神社に併合したと明記している。板列神社の元々の祭神は不明だが、社号標も式内とは記されておらず、{稲逎売神|いなのひめ}(八幡神社は{稻乃売神|いなのひめ})で、豊受大神の別名とされる。丹後では多くの神社で祀られるているので板列神社={稲逎売神|いなのひめ}かも知れない。元々板列稲荷神社だったが稲荷神社は境内社になっており、本殿主祭神を式内板列神社と変更したのかも知れない。八幡神社はあくまでも八幡神である誉田別命(=応神天皇)と息長足姫命(=神功皇后)を筆頭にした八幡神社なのに対し、{稻乃売神|いなのひめ}(=豊受大神の別名)のみとし稲荷神社の祭神ウカノミタマ(倉稲魂命)が本殿に祀られていない意味では、式内板列神社を引き継いでいるのは当社が正当ではある。
歴史・由緒等
延喜式に記載された與謝郡・板列神社の論社となっている。
由緒
当社の創立年代は不詳であるが、延喜式神名帳に「官祭に与れる一社」とあるところからみると、相当古いものであると想像される。
然るに、中世に至り社運衰退し、殊に地続きであった別当の龍泉寺が一色家の祈願所であるという理由で永禄年間(1558-1569)細川氏のため焼却され、板列神社はそのまきぞえをくい、境内の建物は悉く焼失した。当時の村民は深く之れを歎き、その焼跡に小祠を建て祭事を続けて来たが、その後、文政9年(1826)再度の罹災で僅かに残存していた古記、社伝等すべて鳥有に帰した。
境内・社叢
一ノ鳥居・社号標
ニノ鳥居まで長い参道 手水舎
立派な狛犬
拝殿・本殿 立派な境内の杜
拝殿 本殿
境内社 水無月神社、男山八幡宮 正面に稲荷神社
地名・地誌
地名の由来は平安期に当地へ小野仁海が山城男山の八幡を勧請した(板列八幡神社)ことによるといわれる。すぐ隣には丹後国分・国分寺の地名から丹後国府の最有力候補地ともされている。丹後ではめずらしいといわれる整然とした条里制地割も残り、小字名に丁後田・国住・町田・鍵町・郡分・惣役・かわらけ田などもある。府道53号は間人街道の古道。
江戸期~明治22年 宮津藩領男山村
寛文6~9年と延宝8年~天和元年は幕府領
明治22年 岩滝村
大正10年 岩滝町
平成18年 与謝野町
宮津湾沿岸における前方後円墳としては、岩滝町男山、現在の京都府立与謝の海養護学校の付近に、推定全長七四メートルの法王寺古墳がかつて所在した。後円部は、過去に大きくえぐり取られており、昭和四十四年の調査段階ではかろうじて前方部のみが旧状をとどめる状況であった。『宮津市史』
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「神詣」さん、「延喜式神社の調査」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」さん
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