森神社(式内 阿古谷神社)
Contents
概 要
社 号 森神社
延喜式神名帳 式内社 但馬国美含郡 阿古谷神社
読み:古 アコタニ 現 もり
江戸時代は「森大明神」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市竹野町轟字轟356-1
旧地名 但馬国美含郡竹野郷阿金谷村
御祭神 大山祇命(オオヤマツミ) 八幡大神
元は土師部(阿古氏) を祀る。『国司文書 但馬神社系譜伝』 彦湯支命
例祭日 10月15日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
美含郡(ミクミ):12座(並小)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳(『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇五十六代文徳天皇の仁寿二年七月)
本殿様式 春日造 柿葺
境内摂社(祭神)
稲荷神社
一口メモ
竹野川が湾曲して流れているところに轟区がある。蓮華寺という標識を川沿いに左へ入る。突き当たりに阿古谷神社・森神社の大きな社号標があった。轟は高校1年の吹奏楽部の夏休み合宿で民宿から中竹野小学校に通ったので思い出のある懐かしい場所だ。
歴史・由緒等
由 緒
創立年月不詳にして、初め轟字阿古谷の口に鎮座し其地古木欝蒼として荘厳を極めしかば士民自ら森の宮と尊称せり。延喜式の制小社に列し阿古谷神社と称す。延宝7年(1679)本殿を再建し、明治初年(1868)燈火より火を失して本殿以下を炎上す。故に蓮花寺の守護社地へ移転し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。
-「兵庫県神社庁」-
式内社阿古谷神社由来記
神社名の由来は土師部(阿古氏)の居住地たりしにより起これるものにして、地名も阿古谷となる。創建時代は不詳なるも律令期以前より氏族信仰が行れ(る)。祭神は土師連祖吾笥命といわれ、延喜式の制小社に列し、特選神名帳、神祇志にも書き上げらる。創建時は湯の森(轟)阿小谷(阿故谷)の丘に鎮座。その地古木鬱蒼として荘厳を極めしかば、村人は森の宮と尊称、いつしか森神社、森大明神と敬い祀る。
後大山祇命、春日大明神を合祀。延宝7年字森脇に本殿を再建、明治初年本殿以下を焼失、ために蓮華寺鎮守社に移転、神仏分離令により八幡大神と共に明治5年現在地に遷座。同6年村社に列せらる。創建より千数百年を■し、今日尚■人の崇敬篤く秋の例祭には神楽を奉納■
昭和63年10月建之 氏子中「社頭掲示板」
『国司文書 但馬神社系譜伝』
人皇五十六代文徳天皇の仁寿二年七月、美含郡権大領・外従八位上・日下部良氏これを祀る。彦湯支命は神饒速日(ニギハヤヒ)命の孫なり。
人皇六十一代醍醐天皇の延長五年十二月、官社*に授かる。
(註:官社は中央の朝廷が管轄する社。地方の国が管轄する社は国社)
[註] *1 阿故谷 今の豊岡市竹野町阿金谷にある石原神社は、人皇55代文徳天皇3年秋9月 日下部良氏がその祖、彦湯支命を祀ったものだと思われる。『国司文書 但馬故事記』(第六巻・美含郡故事記)
人皇21代雄略天皇17年(473)春4月 出雲国
土師連 の祖・吾笥 の部属 、阿故氏人等部属を率いて、阿故谷*1に来たり、清器 を作る。阿故は赤土なり。
よって埴 を延ばすことを名づけて、蕩 と云う。ゆえにその場所を蕩森 とも云う。(蕩は止呂呂久 と云うべし。のち単に蕩と云い、また森とも云う。故に阿故を置く谷を蕩と云う) (豊岡市竹野町轟)夏5月 気多郡
陶谷 の人、陶谷甕主 、部属を率いて、また来たり。(気多郡陶谷はいまの豊岡市日高町奈佐路 式内須谷神社:豊岡市日高町藤井)
小埦甕人 また来たり。清器 を作る。
出石県埴野邑 埴田陶人は陶居邑 に移住し、陶器・土器を作る(豊岡市竹野町奥須井)。のち土生に帰り、その業を営む。埴生邑*3は陶谷氏人この地に住み、その業を為すなり。(香美町香住区に土生があるが、「土生に帰る」とあるから出石県埴野邑では?今の豊岡市出石町桐野?)
阿故氏人は阿居王(一に吾笥)を阿故谷丘に祀り、阿故谷神社と申しまつる。(蕩ノ森宮これなり)
陶谷甕主はその祖、野見宿禰 命を陶谷丘*4 に祀り、陶谷神社と申しまつる。(斎主森宮これなり)
小埦甕人はその祖、建小埦根命を小埦丘*5に祀り、小埦神社と申しまつる。(豊岡市竹野町小丸)
埴田陶人は、その祖、大襲盤命 を陶居丘に祀り、埴生田神社と申しまつる。(豊岡市竹野町鬼神谷)
*2 気多郡陶谷 今の豊岡市日高町奈佐路 (式内 須谷神社(豊岡市日高町藤井)
*3 埴生邑 今の豊岡市竹野町羽入
*4 陶谷丘 今の豊岡市竹野町須谷があるので院森神社かと思っていたが、院森神社の現在地は平地である。陶谷丘に祀りとあるから、鬼神谷の現八幡神社ではいか
*5 小埦丘 今の豊岡市竹野町小丸 現八坂神社
阿故谷神社は数度遷座され、現在地に至っているため、まったく元々の所在地が不明であるが、『国司文書・但馬故事記』・「阿古谷神社由来記」にある阿故谷は、「初め轟字阿古谷の口に鎮座し」をとれば、轟のすぐ南にある深い谷ではないか。
境内・社叢
社頭 蓮華寺境内
社頭掲示板裏側由来文
境内左手に参道の鳥居 二の鳥居
三の鳥居 四の鳥居
手水舎
拝殿
本殿覆屋 本殿左境内社
境内社 神庫
地名・地誌
轟城のあった山 付近の人が細田さんが歴史研究家でくわしいと案内してくださった細田宅。立派な門構えで中庭は有名らしいが、次の機会とする。
轟城
山四四四名天の重臣垣屋氏が築いた城である。伝によれば、(気多郡三方楽々前城の)垣屋隆国の三男、国時が築いたというがそれを裏付ける資料はない。歴史にあらわれるのは、戦国時代末期、羽柴秀吉(秀長)の但馬攻めに抗戦した垣屋豊続が城主のときだ。豊続は主家山名氏が曖昧な態度のなかで毛利方として活躍、織田信長の但馬攻めに際しても毛利方として徹底抗戦した。豊続は轟城を主城として、 城崎郡から美方郡一帯に城郭を構えていた。
轟城は垣屋氏の菩提寺である蓮花寺の西方にある山上に築かれ、主郭を中心に東南・北東・北西の尾根に曲輪を連郭式に配している。主郭・主郭直下の曲輪、その北西に連なる曲輪は十分な広さのもので切岸も高い。そして、それぞれの尾根先には堀切を穿たれ、羽柴軍を迎え撃っただけの規模の城址である。主郭には秋葉神社が祀られ、神社への参道がそのまま城址への 登山道となっており迷うことなく城址へたどり着くことができる。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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