比婆山久米神社(奥の宮)(式内 久米神社)
Contents
概 要
社号 熊野神社 比婆山久米神社
読み: くめ・くまの
式内社 出雲国意宇郡 久米神社(延喜式神名帳)
出雲風土記には久米神社・熊野神社とも記されている。
江戸時代は「熊野神社」と称していた。
地元の人は下の宮に対して上の宮という。
鳥居扁額には「比婆山大宮」と記されている。
所在地 島根県安来市伯太町横屋486
久米神社奥の宮 安来市伯太町横屋字比婆山611-1
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
伊邪那美之尊(いざなみのみこと)
例祭日 伊邪那美祭(5月6日)
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
『出雲国風土記』「久米社」
近代社格制度
創建
本殿様式 流造 妻入り 曽木葺
鳥居 両部鳥居(主柱を4本の稚児柱で支える)
境内摂末社(祭神)
一口メモ
昨年12月、下の宮まで来て、奥の宮へは夕方で時間が限られており残念だが行かなかった。月山富田城址の式内勝日高守神社とここ比婆山が自分にとって大きな宿題だったので、今回の安来の神社めぐりは志穂美神社から奥宮をめざした。集落からは比婆山頂上は180mでそんなに高い位置ではないのだが、登山口の鳥居からは通行止めになっており、徒歩で30分はかかる。本来古い神社は山頂付近にあることが多く、昔の人々は歩いてお参りしたのだからたどり着いたときはひとしおだっただろうと納得しなければなるまいと思えるほど道のりは楽ではない。ハイキングコースとしては楽な方だが。
歴史・由緒等
祭神伊邪那美之尊は子授かり・安産の守護神として、参拝者が多い。 参拝にはかなり困難な、1kmほどの坂道である。ここを辿る妊婦が「苦しい」「辛い」などの語を発すると、難産すると言い伝えられ、身重なる婦人は、殊更に平気を装って参詣するので習わしである。 御陵峰はかつては禁足地として入山することができなかった。そのため社詞峰か、比婆山と対峙する山の上の台から遥拝していたと言い伝えられている。
ウィキペディア
イザナミの命(妻神)が葬られたとする比婆山は出雲地方に自称 他称を含めて10数カ所あるそうだ。なかでも、古事記において「かれその神避りし伊邪那美の神は、出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺、比婆の山に葬りき」と記される。その比婆山は、広島県庄原市から島根県仁多郡奥出雲町境にある比婆山(最高峰は立烏帽子山1299m)とする説と、ここ島根県安来市にある標高331mの比婆山とする説がある。両者の距離は直線距離で57kmしかない。
大山、白山など高い山に神が宿る場所(神奈備山)として崇めたことから、広島県庄原市から島根県仁多郡奥出雲町境にある比婆山がヤマタノオロチのモデルとされる斐伊川の源流に近く、奥出雲のたたら製鉄など、古社地としては有力な気がするが、本居宣長の『古事記伝』の「伯耆の国人の物語に出雲の国の内、伯耆の堺に近き処の山間にたわの内と云うあり、そこに伊邪那美命の陵なりとて塚あり。・・・・」と載せられている記述からは出雲と伯耆の境に近い島根県安来市の比婆山のほうが妥当性が高い考えられている。
【由緒】天平5年(733)2月30日「久米社」『出雲国風土記』
天文3年(1534)火災焼失
永禄年間(1558-70)兵火全山灰燼
寛文13年(1673)比婆山山麓に社殿を遷
正徳3年(1713)元の比婆山山頂へ奥宮を再建
明治4年熊野神社と称下宮(里宮)
昭和13年火災全焼
昭和19年再建比婆山は日本で一番古い歴史書「古事記」に、日本の国をつくられた女神(伊邪那美命)を葬られた場所として記されている由緒ある山です。
古事記原文
「故其所神避之伊邪那美神者葬出雲国境比婆山也」、抄訳(その神避りし伊邪那美の神は、出雲の国と伯伎の国との境の比婆山に葬りき)標高は約300mあり、伊邪那美命を祀る御陵峰、御陵を崇拝する社祠峰、夫の伊邪那岐命をみたてた妙見峰の三つの峰からなっています。
山頂には神事に用する浄水の湧く井戸や供饌米を自給した献穀田の跡があり、久米神社が祀られています。この「久米」の語源は「コムル(隠し奉る)」の意で伊邪那美命の霊をお祀りしたと伝えられています。
月山富田城を拠点に、中国十一州を統治した尼子氏が、守護の祭神として篤く崇拝したここ比婆山には、随神門をはじめとした社殿や五坊、鐘楼など整え神仏習合一山の隆盛を極めた跡をうかがい知ることができます。
また山頂から麓にかけて、陰陽竹(島根県指定天然記念物)や玉抱石、神龍石、玄武岩柱状節理の奇勝もあります。
安来市 平成24年3月「社頭掲示板」
「延喜式神社の調査」さん
出雲なら当然、出雲大社・熊野大社などで一般的な大社造り(切妻妻入り)であるのがふつうだが、奥宮は流造曽木葺なのに、下の宮はどういう訳か、伊勢神宮などの神明造り(切妻平入り)で建てられている。久米神社は熊野大社ともいわれるので大社造りだった可能性が高いが、昭和19年再建とあるので、当時は昭和20年の終戦前で東京大空襲など戦火が激しかった年である。日本全体が国家神道を元に結束していたのであるから、政治的に天照大御神の伊勢神宮にならい、神明造り建築を許可したのではなかろうか。あくまでも想像であるが。奥宮は江戸時代であるから本殿の庇を拝殿まで延ばす流造りが一般的になっていたのだろう。
境内・社叢
参道入口の鳥居
登山口(ここより車は通行禁止)
神社手前の参道には陰陽竹が自生する 夫婦岩
比婆山案内板
境内入口の参道
手水らしき石 神社全容
拝殿 拝殿扁額
狛犬
宍道の来待石。出雲や日本海側の神社に多く使われる。山頂まで運んだ労力は大変だっただろう。
本殿
本殿奥 伊邪那大神御神陵
比婆山は「古事記」に記された国生みの神、伊邪那美命(イザナミノミコト)の御陵だと伝えられています。
標高320mの山頂付近には、これを祭神とする久米神社奥の宮があり、麓には久米神社下の宮があります。古くより各地の豪族の崇拝が厚く、その後尼子氏や母里藩の祈願所として栄えました。
現在も、安産の神様として多くの参拝者が訪れています。陰陽竹
山頂付近には男竹に女性的な笹のついた「陰陽竹」も分布しています。真竹に似た茎に笹のような大きい葉をつけているのが特徴。
全国的にも極めて珍しく貴重な竹として、昭和47年に島根県の天然記念物に指定されました。
学名「ヒバノバンブ-サ・トランキランス・マルヤマ・オカムラ」。伝説では、イザナミが出産の際比婆山に登り、手に持っていた杖を地中に立てたところ、根を出し葉を広げ陰陽竹になったといわれています。
玉抱石とちんちん井戸
不思議な丸い穴の空いた「玉抱石」は、神気がこもっていると言われる霊石です。
この石に触れ、伊邪那美命にお参りをすると子宝に恵まれ安産であるという言い伝えがあります。また、ちんちん井戸と言われる井戸の水を産湯に使うと、その子供は一生元気で健やかに育つという言い伝えもあります。
ちんちん井戸は、現在は網で塞がれており、その神水にふれることはできませんが、比婆山には様々な安産のご利益があることが伺えます。-『安来市観光ガイド』より-
(画像がない。。。)
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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