仏教と神道が、日本人の社会で広く一般的に受け容れられている宗教であることは、周知の通りです。もちろん、キリスト教を信仰する人もいるわけですが、今日、日本におけるキリスト教信者の数は、人口の1パーセントにも達しないと見込まれています。イスラム教にいたっては、日本人信者は全体で何人という程度ではないかと考えられます。
また儒教は、日本人の社会にも大きな影響を及ぼしていますが、宗教という概念で捉えにくい面もあり、日本人の信仰、あるいは宗教を考える場合、扱い方の上からは除外されるようです。
というわけで、日本人の宗教意識という意味では、仏教と神道の二つが中心と考えてよいといえるでしょう。この二つは、本来、異質なものであるにもかかわらず、ある時期には神仏習合のような信仰形態を生んだりもした。
まず、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なります。日本の神道は、多神教で神道の神々は、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできたとして、その寛容性が主張されることがあります。しかし、世界各地に仏教が広まった際、土着の信仰との間に軋轢が生じました。日本に552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されていました。また、誕生した違いとして、神道が日本民族が形成されて以来、アミニズムや祖先崇拝からはじまった日本固有の信仰形態、民俗信仰であるのに対して、仏教は、インドに発祥して中国・朝鮮を経由して入ってきた外来宗教であるという違いがあります。
神道は宗教なのか。一般的な宗教という定義からすると否です。神道は、日本の数ある宗教観念の中でも最も古い部類に属します。しかし、宗教というには、あまりに宗教的ではないため、その存在は、世界的にみても、異彩を放っており、日本人の感性そのものを構成する基本要素のひとつとして、非常に重要なものとなります。それは、他の宗教と比較してみるとよく分かります。
その差異は別項で触れていますが、神道そのものの発現の土台は、自然物崇拝・農耕儀礼・祖先神崇拝から神社の形成──神社神道の成立、天皇家の祖先崇拝の祭儀から体系化された皇室神道、その他教派神道というように幅広いものがある。
基本的に、神道全体を貫く統一的な教理はない。またその意味で、開祖も存在しないといえる。もっとも教派神道の中には、特定の教祖や指導者が、独自の教義・教理をまとめて体系化していったものもあるが、神道全般に通ずる開祖・教祖・教理はもたなかった。
この点は、仏教が釈迦牟尼によって開宗されたものであることと大きく異なっている。仏教では、法身仏=毘盧舎那仏(ビルシャナブツ)*1、密教では大日如来として立て、いわば至高の存在、唯一無二の権威として考える。キリスト教やイスラム教と同様、信仰の対象となる中心的存在は一つと考えるわけである。ただし釈迦牟尼以前から形成されていたバラモン教および土俗的要素を含むヒンドゥー教の影響から、仏教にも各種の仏・菩薩・諸天などが存在し、一種の多神教的性格は残っている。この点では、キリスト教・イスラム教などと違った特徴である。そして如来以下、これらの諸尊はそれぞれその性格や役割の上で、バラエティー豊かな個性をもっている。
神道では、文字通り八百万(やおよろず)の神などという表現があるように各種の神が登場する。天皇家が祖先を祀るべく体系化された皇室神道では祖神として天照大神を中心としているが、神社神道などでは祭神としては、実にいろいろな神を祀っている。
たとえば鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)であり、諏訪大社は建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妃、八坂刀売神(やさかとめのかみ)を主神としている。住吉大社は住吉大神(住吉三神=表筒男命、中筒男命、底筒男命)および息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后が祭神である。
いずれにしても、天照大神はすべての神道の世界における、全知全能、唯一最高の絶対神ではない。その意味で神道は多神教なのである。
その一面、神道形成の舞台として相当なウエイトをもつ神話に登場する八百万の神々は、○○の命という名はあっても、非個性的で性格づけもはっきりとしない。神格はありながら、抽象的、精神的存在というイメージが強い。このことは、ギリシャ神話中の神々が、愛し合ったり争ったりする、人間的な姿に描かれ、美を司る女神アフロディーテ(ヴィーナス)とか、海を支配するポセイドンなどといったように、役割分担がはっきりしていることと比較してみれば、よく理解できるだろう。
これに比べると、日本の神々は、「言挙げせず」の言葉通り、自らの存在を声を大にしてPRするようなことはしないし、布教なども行わない。常に社殿の奥に鎮座しているだけである。神を祀り、奉仕する場面においても、“鏡”や木(榊さかき)、磐座(いわくら)などを憑依(ひょうい)としてのみ、人間と交流するのが日本の神々であります。
日本の神々は、実態的、実在的な姿を人間の前に現すことはない。その意味では、観念的な意味合いの強い信仰対象だといえる。このことは、仏像に対して神の彫像・画像の類の作例が極めて少ないという点に端的に象徴される。今日残されている神像として、薬師寺に、木造僧形八幡像・神功皇后・仲津姫命の坐像、京都の松尾大社に木造の男神坐像・女神坐像がある。そのほか小津神社、熊野速玉神社、大鳥神社、円城寺、東寺などに神像があるが、その数は全国的にみても、数十体の作例がある程度で、仏像の数とは比べるべくもない。
*1 毘盧遮那とはサンスクリット語のVairocana「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。東大寺の大仏など。
神 道 | 仏教、キリスト教等一般宗教 | |
1.信仰神 | 多神教 | 一神教(絶対神) |
2.教義・教典 | なし | あり(仏典・聖書など) |
3.信仰主体 | 信者側 | 教団側 |
4.布教活動 | なし | あり |
5.信仰形態 | 依り代信仰 | 偶像信仰 |
このように、一般の宗教教義とは大きく異なる特徴を持っているのが、日本の神道です。これは、神道という言葉からも分かるように、基本は「神」の「道」であって、「神」の「教」ではないとうことにその本質が伺えます。つまり、神道は、神に教えを請うものでなく、自らが歩む(極めていく)という考え方です。これは、剣道や柔道などの武道と同じく、克己の心を表しているとも言え、神道の基本的精神は、まさに、自分次第ということになるのでしょうか。それだけ、曖昧かつ寛容な考え方と言えます。
引用:『仏教・神道の様々な知識』・「神社本庁」、「神社人」、ウィキペディア