粟田神社
Contents
概 要
社号 粟田神社
読み:あわた
所在地 京都市東山区粟田口鍛冶町1
旧地名 山城国愛宕郡
旧社名は、感神院新宮(カンジンインシングウ)、粟田天王宮。明治になり粟田神社と改称
御祭神
主祭神 [主座] 建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと=牛頭天王)、大己貴命(おおなむちのみこと)
配祀神 [左座] 八大王子命(はちだいおうじのみこと)
(八嶋士奴美神・五十猛神・大屋彦神・大屋媛神・抓津媛神・須勢理媛神・大歳神・宇迦之御魂神)
[右座] 奇稲田媛命(くしいなだひめのみこと)、神大市媛命(かむおおいちひめのみこと)、佐須良媛命(さすらひめのみこと)
右座外殿合祀
竹生嶋社・猿田彦社・度会社・天御中主神・加茂社・日吉社・和歌三神・手力雄社・崇徳天皇
例祭日 粟田祭(粟田神社大祭) 10月15日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 一説には奈良朝より活躍した粟田氏の氏神として創建された社とも云う
本殿様式
境内摂末社(祭神)
摂社 北向稲荷神社 出世恵美須神社 聖天社
末社 大神宮 多賀社 朝日天満宮 吉兵衛神社 太郎兵衛神社 鍛冶神社
一口メモ
三条通蹴上の手前だが、右折が厳しいので、日向大神宮から帰り道に左折。狭い車道をしばらく進む。
歴史・由緒等
由 緒
スサノオノミコト・オオナムチノミコトを主祭神として祀り、厄除け・病除けの神と崇敬される。京都の東の出入口である粟田口に鎮座する為、古来東山道・東海道を行き来する人々は旅の安全を願い、また道中の無事を感謝して当社にお参りされ、いつしか旅立ち守護・旅行安全の神として知られるようになる。
祭には神輿に先行して剣鉾が巡行する。剣鉾は祇園祭の山鉾の原形と云われており、 室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えられる。平安時代 清和天皇貞観十八(876)年春に神祇官並びに陰陽寮より「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。そこで直ちに勅が発せられ、全国の諸神に御供えをして国家と民の安全を祈願されました。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に一人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と告げられました。興世が「このように云われる神は、如何なる神ですか?」と尋ねられると、老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王(ゴズテンノウ=スサノオノミコト)に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言われて消えられました。興世は夢とは思わず神意なりと朝廷に奏上し、勅命により直ちに此の地に社を建てて御神霊をお祀りしました。
一説には奈良朝より活躍した粟田氏の氏神として創建された社とも云う。
-「神社公式」ー
創建以来、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)厄除の神様として知られています。
平安時代の貞観18(876)年に国家と民の安全を祈願する為に全国の諸神へ勅使が遣わされました。その際従五位上出羽守藤原興世は祇園社(現 八坂神社)にて七日七晩祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に老翁のお姿の大己貴命が神託を告げられました。興世は神意なりと朝廷に秦上し、勅命により社を建てて御神霊をお祀りされましたのが当社の始まりとされています。また一説には、五代孝昭天皇の分かれである粟田氏が此地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われています。
境内・社叢
鳥居
狛犬
手水 御神馬
拝殿 御本殿・桧皮葺拝殿
太郎兵衛神社・北向稲荷神社 太郎兵衛神社
多賀社・朝日天満宮 大神宮
出世恵美須神社 聖天社(現在本殿内に安置)
地名・地誌
粟田口(あわたぐち)
京都市東山区北西端の地区。東山三条白川橋から蹴上(けあげ)までの間。古来、京都七口の一で、東海道の山科(やましな)からの京都への入り口をなす。古くから街道の要地として発達した。
京都七口とは、中・近世に京都の市中(洛中)と市外(洛外)を結んだ街道の出入口の総称で,京の七口ともいう。多数の出入口を象徴的に表現したものであったが、近世になると次第に固定していき、1703年の《京都覚書》は,七条口・千本口・大原口・粟田口・五条口・竹田口・東寺口を七口としている。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「神社公式サイト」http://www.awatajinja.jp/
「京都十六社 朱印めぐり」 http://www.kyoto-16sha.jp/j_hokoku.html
「京都観光NAVI」http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
0件のコメント