許波多神社(五ヶ庄) (名神大 許波多神社 三座論社)

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

現社 号 許波多神社
読み:こはたじんじゃ
旧称:柳大明神
延喜式神名帳 式内社 山城国宇治郡 許波多神社三座(並名神大 月次/新甞)
読み:コハタ
所在地 京都府宇治市五ヶ庄古川13
旧地名 山城国宇治郡
御祭神 瓊々杵尊(ににぎ のみこと)・天忍穂耳尊(あめのおしほみみ のみこと)・神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)

例祭日 11月3日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
宇治郡(ウチ) 10座(大5座・小5座)

近代社格制度

創建       大化元年(645年)
本殿様式     流造

境内摂末社(祭神)

文化財

国指定重要文化財
本殿
鉄宝相華孔雀銅象嵌半舌鐙(てつ ほうそうげくじゃく どうぞうがん はんじたあぶみ)一双、附:鉄舌長鐙 一双

府指定有形文化財
男女神像 二体

一口メモ

式内社には論社といって、同名社が複数比定されている例がある。許波多神社もそのひとつで、祭祀が一旦途絶えてしまった当社を復興させたため、宇治市木幡東中と五ヶ庄の隣接する2つの地区に許波多神社がある。府道245号線、京阪宇治線と宇治川のほぼ中間北側にある。狭い道で神社に駐車場はないが、交通量が少ないのでしばらく鳥居の横に停めさせてもらった。

歴史・由緒等

当神社は孝徳天皇大化元年(645)勅願により皇祖の御神霊を奉祀するため創建せられ延喜式神名帳(927)所載の大社である。貞観元年(859)従五位の神位奉授、永禄12年(1569)正一位の神位を宜叙せられた。
明治8年まで旧大和村柳山に境域三万六千余坪を擁し鎮座の故に柳大明神と称し奉った。
寛永17年(1640)牛疫平癒御祈祷のため次の和歌を御献詠になった所さしも激しかった牛疫も急に治まったという。
憐をたるゝ柳の神ならは
死(ぬる)をうしと思(ひ)やはせぬ
延宝六年(1678)社殿営繕の折宮中より金品を賜った。天和2年(1682)遷宮の折神祇管領吉田兼連御参向近衛家より正副奉幣使が幣帛を供進せられた。累代例祭遷宮祭には近衛家より奉幣使参向されるの制であった。
明治9年柳山境内地陸軍火薬庫用地に上地に付、旧岡屋の当神社御旅所であった現在地に移転、御社名を現名称に復した。
国指定重要文化財 本殿 一棟
府指定有形文化財 男女神像 二体

「社頭掲示板」

式内社(名神大社)「許波多神社」の比定社であるが、宇治市内には許波多神社という名前の神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にあり、それぞれ異なる社伝を伝える。旧社格はどちらも郷社。

天忍穂耳命のほか瓊々杵尊、神日本磐余彦尊(神武天皇)を祀る。
社伝では、大化元年(645年)、蘇我倉山田石川麻呂の奏上により、孝徳天皇が中臣鎌足に命じて木幡荘に皇祖を祀る神殿を造営させたのに始まると伝えられる。当時は柳山の地に社殿があったことから「柳大明神」と呼ばれるようになり、江戸時代までは「柳神社」を正式の社名としていた。明治時代、陸軍宇治火薬製造所(現 陸上自衛隊宇治駐屯地)の建設のため社地全体が官有地として召し上げられ、当社は御旅所であった旧岡田村内の現在地に遷座し、その際に社名を旧称の許波多神社に改称した。
平安時代後期の作とされる男女一対(馬頭天王・弁財天)の神像が伝わるが、これは附属の寺で祀られていたものである。本殿には、鎌倉時代の作とされる天忍穂耳命の神像が祀られている。
かつて、社殿より続く東西2町の馬道で競馬(くらべうま)の神事が行われており、「競馬発祥の神社」とされている。当社に残る平安時代の鐙(あぶみ)は重要文化財に指定されている。ほかにも、馬頭天王の神像があることから、「馬の神社」として競馬ファンや競馬関係者の信仰を集めている。

(ウィキペディア)

境内・社叢

  
一ノ鳥居                   二ノ鳥居


手水舎

地名・地誌

地 図

京都府宇治市五ヶ庄古川13

交通アクセス・周辺情報

参 考

「延喜式神社の調査」さん、他

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