諏訪神社(式内 出雲神社)
Contents
概 要
現社号 諏訪神社
読み:すわじんじゃ
延喜式神名帳 式内社 出雲国出雲郡 出雲神社論社
読み:古 イツモ
(合祀) 式内社 出雲国出雲郡 同社韓国伊大弖神社
読み:古 ・・カラクニイタテ
所在地 島根県出雲市別所町72
旧地名 出雲国出雲郡
御祭神 武御名方神(たけみなかたのかみ) 八束水臣津野神(やつかみずおみつのかみ)
例祭日 4月9日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国 187座(大2座・小185座)
出雲郡[イツモ]:58座 大1 小57
『出雲国風土記』「出雲社」
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 大社造 柿葺
境内摂末社(祭神)
山神社
一口メモ
出雲大社はもと杵築大社と云われていた。ところが延喜式神名帳に杵築大社とは別に出雲神社が記載されている。出雲神社は旧出雲郡にあったのは間違いないが、論社が数社あるがはっきり分かっていない。そのひとつが諏訪神社。
もう日没近いので今回の出雲の式内社探索も最後の神社となった。唐川に近い場所ながら、韓竈神社の谷から唐川の斐代神社、諏訪神社の別所町へは谷が深く、さらに唐川と別所町とに谷が分かれており、かなり下ってからまた別の道に入らなければならない。(スマホの電波は届かない地域なので、マップ情報がなく、後で別所町へ山道が通れることが分かった。)道渕に諏訪神社参道とあり、その先に車が登れたので参道があるのではないかと小屋と小さい祠が並んでいる場所まで行けたが、そこから諏訪神社へは行けないようなので、最初の看板まで戻って石段を歩く。薄暗い林の中をこれで本日は最後だと諦めずにかなり歩き鳥居が見えた。韓竈神社のきつい石段のあとだけに平坦で整備された参道に感じる。
このあとこの道で唐川へ戻ったがすっかり日が落ちて小さな社の斐代神社はわからず。途中に金山という集落があるので鉱山に関わった人かなと思うが、唐川町と別所町はさらにもっと高い場所の山村にしては不思議なほど人家が多かった。お寺の鰐淵寺が有名でその僧院や僧侶たちの関係で多く住んでいたのだろうか?
歴史・由緒等
出雲神社は鰐淵寺が造立されて以後、この地に遷座され、鰐淵寺住職によって祀られ、一般民間人の信仰の対象となっていた。そして明治3年になつて祭祀が神職側に移され、今日に至った。
「延喜式神社の調査」さん
武御名方神(たけみなかたのかみ)は、『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られる祭神。そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。当社が諏訪神社というのもそのようである。
出雲神話で八束水臣津野神(やつかみずおみつぬのみこと)は、『出雲国風土記』にみえる神で記紀には登場しない。出雲の国が狭いというので、次々とよその土地の余っている所を切り取って、(三瓶山と大山に)綱をつけて海上はるかに引き寄せてきて、しっかり繋ぎとめたという。これは「国引き神話」と呼ばれており、こうしてできたのが今日の島根半島ということになる。
出雲神社は鰐淵寺が造立されて以後、この地に遷座されたとあり、それでは、式内社出雲神社は元々どこだったのだろうという謎である。今の出雲大社は、かつて杵築神社(きつき)とよばれており延喜式神名帳の出雲郡にはそれぞれ別々に記されているのでこの出雲神社とは別の神社である。
式内社で出雲国出雲郡 出雲神社の論社は3ヶ所ある。
式内 出雲神社(論社)
諏訪神社 「武御名方神、八束水臣津野神」島根県出雲市別所町72
長浜神社「八束水臣津野命」 島根県出雲市西園町4258
出雲大社摂社素鵞社「須佐之男尊」 島根県出雲市大社町杵築東195
素鵞社は須佐之男神であるが、他二社は八束水臣津野命を御祭神とする。諏訪神社も全国的に広く信仰されている神社のひとつ。諏訪神社も後世に諏訪神社とされ、御祭神に諏訪大社の武御名方神を勧請(合祀)したのだろう。
※また、いずれの神社も同社韓国伊大弖(からくにいたて)神社の論社でもある。
同社韓国伊大弖神社の論社も出雲には多い。それだけ出雲では大切にされていた神様であることはわかる。
島根県出雲市斐川町神氷823 曽枳能夜神社境内社 韓國伊太弖奉神社
出雲市以外の韓国伊大弖神社
揖屋神社 摂社韓国伊大弖神社 島根県松江市東出雲町揖夜字宮山2229
玉作湯神社に合祀 島根県松江市玉湯町玉造508
嘉羅久利神社に合祀 島根県安来市広瀬町広瀬364
境内・社叢
鳥居 鳥居扁額
境内 本殿
地名・地誌
地 図
交通アクセス
県道250号線、一部23号線で出雲市河下町から県道250号線3.0 km、11 分
周辺情報
鰐淵寺(がくえんじ)
鰐淵寺は、島根県出雲市にある天台宗の寺院。山号は浮浪山。
中国観音霊場第25番札所、出雲観音霊場第3番札所、出雲国神仏霊場第2番札所。
開山は智春上人、本尊は千手観世音菩薩と薬師如来の二体。
伝承によれば、推古2年(594年)信濃国の智春上人(ちしゅんしょうにん)が遊化して出雲市の旅伏山(たぶしさん)に着き、推古天皇の眼の病を治すために当地の浮浪の滝に祈ったところ平癒されたので、その報賽(ほうさい)として建立された勅願寺である。
平安時代末期までの鰐淵寺は現在地のやや西寄りの唐川にあった。これに林木(はやしぎ、現出雲市内)の別の寺院(薬師如来を本尊とする)が吸収された。以後、鰐淵寺は千手観音を本尊とする「北院」と薬師如来を本尊とする「南院」に分かれることになる。
鎌倉時代には守護佐々木氏の保護を得て栄えた。また、鰐淵寺とは山をへだてて南西側に位置する出雲大社との関係も深まった。稲佐の浜を極楽浄土の入り口とみなす信仰が発生し、これが出雲大社の発展と重なり、古代秩序の崩壊と中世への移行も相まって、神仏習合の形を取った両者の密接な関係が発展し、後に出雲大社の別当寺を務めるまでにその関係は深まった。
16世紀後半から17世紀初頭に掛けて、出雲大社では御頭神事が衰え、また祭神が須佐之男命から大国主命に変更されたことから、神仏習合を通じて深い関係を持つ鰐淵寺は出雲大社との関係を見直すこととなりその勢力は衰えを見せた。
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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