酒解神社(名神大 自玉手祭来酒解神社)
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概 要
現社号
読み:たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ
通称:酒解神社(さかとけじんじゃ、さかときじんじゃ)
所在地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王46
旧地名 山城国乙訓郡
御祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ)=酒解神
明治までは天神八王子神(牛頭天王)
例祭日 5月4日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
乙訓郡(オトクニ) 19座(大5座・小14座)
式内社 山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社(名神大 月次/新嘗 元名山埼杜)
読み:ヨリタマテマツリキタルサカトケ
近代社格制度 旧郷社
創建 元正天皇養老元年(717)再建
本殿様式 切妻造。檜皮葺但し銅板葺にて覆
境内摂末社(祭神)
後見社(大己貴命)
宮主社(足名稚命、手名稚命)
三社宮…天照大神社(天照大神)・月讀社(月讀大神)・蛭子社(蛭子神)
厳島社(市杵嶌姫命)
文化財
本殿 国の登録有形文化財
神輿庫 国の重要文化財、鎌倉時代建立の板倉
神輿(2基) 室町時代以前の作
一口メモ
山崎は酒屋の私としてはニッカウヰスキー創業者、竹鶴政孝氏が寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎氏と組んで日本で初の本格ウイスキーを製造する山崎蒸溜所(山崎とあるが正確には大阪府三島郡島本町に位置)のある聖地のようなところ。
サントリー山崎蒸溜所やサントリー京都ビール工場は数年前に見学したが、この酒解神社はその山崎蒸溜所のすぐそばにありながら当時はまったく知らなかった。山崎は名水で有名な場所で、安土桃山時代には千利休がこの地の水で豊臣秀吉に茶を点てたことがあり、JR山崎駅のそばにある妙喜庵には、千利休の現存する二例の茶室作例の一つである茶室待庵(たいあん)(国宝)が現存する。また、モネなどの名画を所蔵する美術館でもあるアサヒビール大山崎山荘も天王山登山口のそばにある。
登山道は坂道と段が続き、往復1時間半もかかる大仕事で、山崎聖天からが近いと思い、急だったが、摂社までたどり着きながらうっかりして本殿がその三社宮のすぐ奥にあるのを忘れていたことに後から気づいて悔しい思いであった。
今回はそのリベンジ。宝積寺ルート。天王山は、海抜270で三合目あたりの宝積寺まで車で行ける。こちらからの登山道は、傾斜がゆるいがその分長い。もうひとつのルートは長岡京市の小倉神社から天王山を通るルートがある。
歴史・由緒等
山頂より道程約百メートル下ったところに位置する。
創建の由緒は不詳であるが、養老元年(717年)建立の棟札があることから奈良時代の創建とみられている。旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。
平安時代の延喜式神名帳には「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され、官幣名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預ると記されている。
その後、自玉手祭來酒解神社の祭祀は途絶え、明治時代まで所在がわからなくなっていた。現在の自玉手祭来酒解神社は、天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」であった。天王山は元は山崎山と呼んでいたが、当社にちなんで天王山と呼ばれるようになった。
一時期式社自玉手祭來酒解神社は失われていた、明治10年に式内社自玉手祭來酒解神社と決定された。
明治10年6月、山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に改称した。現在の祭神・大山祇神はそのときに定められたものである。
「神輿庫」は鎌倉時代の校倉造り建築であるが、三角材を組んだ正倉院式ではない。幅も厚みも見事な桧板をびっしり置き重ねた板倉式倉庫としては日本最古のもので、現存するたった一つの非常に珍しい建築物で、国の重要文化財に指定されている。
(以上、ウィキペディア他)
つまりは、平安時代の延喜式神名帳には「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。
自玉手祭來酒解神社の祭祀は途絶え、明治時代まで所在がわからなくなっていたが、明治10年6月に天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」を式内・自玉手祭来酒解神社と改称したもので、元々は山埼杜と天王社は別々の神社である。
山中にあった式内社が、のちに麓の村に近い場所に遷座される例が一般的で、経緯はどうであれ、その逆の珍しい例であろう。離宮八幡宮になるまで山埼社で、平安時代に自玉手祭来酒解神社と改称された時点では、離宮八幡宮地内に社があったのか、すでに天王社を自玉手祭来酒解神社としていたのか不明である。いずれにしても旧乙訓郡で現存する最古の神社であり、神輿庫は鎌倉時代の建築で日本にある板倉式倉庫としては最古の例であり、戦いの場でさえなければ、海抜270メートルの低い山が、天下分け目の有名な羽柴秀吉軍と明智光秀軍の山崎天王山の戦いが行われたことで、勝負を決める分岐点を「天王山」、そのような勝負を戦いを「天王山の戦い」といわれる所以は、この天王社が建てられて、山埼山と呼ばれていた山が牛頭天王を祀る「山崎天王社」が建てられたのちに天王山と呼ばれるようになったからであるから、意味のある神社なのだ。
境内・社叢
(範囲が広いため道順通りに記す)
山崎聖天登山口 宝積寺 登山口
山崎聖天登山口に一の鳥居があるので、元々の参道はこのルートだろう 中間に二の鳥居
山崎合戦の碑 山崎合戦絵巻パネル
旗立松展望台 天下分け目の山崎合戦 両軍配置図
二の鳥居前 水無瀬(桂川・淀川・宇治川あ合流する地点)が見渡せる
二の鳥居の神社方向から下を眺める 参道石段(この上に手水舎と十七士の石碑がある。石段右手に緩い別ルートがある)
手水舎 厳島社
十七烈士の墓
三社宮 天照大神社(天照大神)・月讀社(月讀大神)・蛭子社(蛭子神)
しばらくゆるい坂を登ると正面に
御神燈 参道
社号標 手水舎
拝殿 拝殿向側
本殿 本殿側面
神輿庫 板倉式倉庫としては日本最古 本殿左境内社 宮主社(足名稚命、手名稚命)
本殿右手境内社 後見社(大己貴命)
山崎山城址へ
登山道分岐点 山崎山城跡
山頂のパネル
地名・地誌
天王山
天王山は山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の国境にあり、桂川・宇治川・木津川が合流する交通の要衝としてまた、豊臣秀吉と明智光秀の天下分け目の山崎の戦い有名な古戦場で、悔しいかぎりです。
山崎
大山崎町(おおやまざきちょう)は、京都府乙訓郡の町。大阪府三島郡島本町との府境に位置する。京都府下で最も面積の小さい町である。旧山城国乙訓郡。河の南という意味で「河陽(かや、かよう)」の別名がある。
丘陵地が平野に近く迫り、そのふもとに桂川と宇治川、木津川の合流点が位置するため、山崎は古来から交通の要地であった。明智光秀を豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が破った山崎の戦いは天王山山麓で行われた。この故事から雌雄を決することや勝負の分かれ目のことを「天王山を迎える」(または単に「天王山」)と呼ぶ成句が生まれた。
大阪府の島本町山崎から京都府の大山崎町にかけての山崎の地はまた名水で知られ、日本における製油発祥の地である離宮八幡宮には石清水(いわしみず)の名の元となった湧き水があった。また山崎駅前の妙喜庵には千利休の現存する二例の茶室作例の一つである茶室待庵(国宝)が現存する。
地 図
交通アクセス
公共 JR京都線山崎駅右手に登山口あり徒歩40分
阪急京都線 大山崎駅 徒歩40分
車 大山崎JCTのICからすぐ
周辺情報
アサヒビール大山崎山荘美術館、サントリー山崎蒸溜所
離宮八幡宮、水無瀬神宮、関大明神、妙喜庵 千利休の現存する二例の茶室作例の一つである茶室待庵(国宝)
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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