由 緒
白鳳12年9月本村開拓の祖矢作連鷹取其祖経津主命を矢作丘に勧請す。
享禄3年(1530)9月建御雷命、経津主命を合祀し享保12年(1727)11月社殿を再建す。
明治以前は三宝荒神と称せしも明治3年(1870)兵主神社と改称し、同6年(1873)10月村社に列す。同24年(1891)8月岩井八幡を合祀し、大正9年(1920)新たに霊代を営み盛大なる遷座祭を行う。
「兵庫県神社庁」
人皇40代天武天皇白凰2年(673)秋8月、椋椅(くらはし)部連小柄を以って、美含大領と為し、郡家を長井邑に置く。(今の美方郡香美町香住区小原)
椋椅部小柄は伊香色雄命(イカシコヲ)16世の孫なり。
12年(683)夏5月、美含大領・椋椅部連小柄に勅を奉じ、兵馬器械を具え(備え)、武事を講習し、かつ兵庫(ヤグラ)を伊久刀ノ丘に設け、兵器を蔵む(貯蔵する)。
嶋戸天物部命の裔・原造義踏(ヨシトモ)を召し、兵庫の典鑰(テンヤク)*1と為す。原造義踏は、兵主神を伊久刀丘に祀り、兵庫の守護神と為す。(伊久刀丘は 今の香美町九斗から浦上の神ノ浦山あたり?)
また楯縫連(タテヌイノムラジ)彦麿を召し、楯を縫わしむ。
葦田首鞆雄(アシダノオビト トモオ)を召し、刀剣鉾鍬を鍛えしむ。
矢作連鷹取(ヤハギノムラジ タカトリ)を召し、弓矢を作らしむ。
楯縫連彦麿は、その祖・彦狭知命を楯縫丘に祀り、楯縫神社と申し祀る。(いま田宮というはこれなり)浅香村は縦縫氏の部属(ミヤツコ)なり。(今の多田神社 丹生地)
葦田首鞆雄は、その祖・天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)を鍛冶丘に祀り、葦田神社と申し祀る。(岡村の鍛冶宮・今の竈戸神社 上岡)
矢作連鷹取は、その祖・経津主命(フツヌシ)を矢作丘に祀り、矢作神社と申し祀る。(隼人の滝宮)*2
『国司文書・但馬故事記』
[註]
*1 典鑰 律令制において中務省に属した品官(ホンカン)である。和訓は「かぎのつかさ」。
*2 香美町隼人に矢作神社は現存せず、今は兵主神社がある。矢作神社が兵主神社となったのではないかと想定する。