式内 高田神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 式内社 丹後国加佐郡 高田神社
読み: 古 タカタノ 現 たかだ
所在地 京都府舞鶴市上安字中イナキ899
旧地名 丹後国加佐郡大内郷

御祭神 建田皆神(たけたみなのかみ)=建田背命(たけだせのみここと)、天鈿女神(あめのうずめのかみ)

例祭日 10月17日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
加佐郡(カサ):11座(大1座・小10座)
式内社

近代社格制度 旧村社
創建

境内摂社(祭神)

稲荷神社(祭神保食神)
広峯神社(祭神 素盞鳴神)
大川神社(祭神 五元五柱神)
水天宮神社(祭神四座不詳)
兵主神社(祭神不詳)

一口メモ

今田の倭文神社から向かったので、川沿いに府道28号から福来で山を越えた。上安交差点を天台の方へ曲がった右手の舞鶴線線路脇にある。鎮守の森が見えるのですぐわかるが、どういけばいいのか参道がわかりにくい。当初交差点から線路の反対側の広い道からさがしたが、行けそうにないので、少し下の上安踏切の脇から農 道(と思う)しか行ける道がないことがわかった。軽四なので行けるところまで行ったが恐い道。式内社がその道に面しているということは、かつての街道か、当たらずとも神社のそばに若狭への街道があったのだろう。

歴史・由緒等

祭神の建田背命は丹後海部氏の祖神である。

當社ハ 元大内郷ニ鎮座マシマシ 丹波国造ノ祭リ給ヒシ御社ナリ

安康天皇ノ御宇 億計王オケオウ 弘計王ヲケオウ 此ノ国ニ忍ビ給ヒシ時 御崇敬アラセシト傳フ
降リテ慶長ノ代 田辺城主京極高知公 伊佐津川ノ瀬替ヲナシ 現状ノ如クナセシ為 其後堂社流失ノ災ニ遭ヒ給フ
此時 上安ノ某 大洪水ヲ豫知シテ 御神体ヲ負ヒ奉リ「みせんが谷」ニ遷シ奉リシヨリ 永ク上安ニ御鎮座ノ事トナリス
大内郷御本社ノ跡ハ 字宮知里トシテ慶応ノ頃マデ大木老松アリシガ 仝二年八月暴風洪水ノ為跡ヲ止メズ

現社殿ハ寛保三年十月ニ萱葺 神明造トシテ再建事始シ 翌延享元年三月完工セシモノナリ

境内の案内板より抜粋

高田神社は上安に鎮座。祭神は建田背命(丹後旧事記)とするが、「加佐郡誌」では天細(鈿)女命 を加えている。建田背命は丹波国等祖(丹後国式内神社取調書)とするが、天鈿女命を祭神とした経緯も判然としない。同社はもと伊佐津川に近い地に祀られていたが、京極氏時代に洪水を避けるため現在地へ遷した(明治五年祠官田中照海書)とされている。
《舞鶴市史》

もともと高田社(祭神:建田背命)はここにあったのではなく、鎮座地は洪水や社殿の老朽化などで度々その位置を変えたといわれる。社伝によれば、古くはずっと下の大内郷宮知(みやち)里とよばれた、現在の字倉谷と字上安との境にあたる杭(くい)ケ坪の辺りにあったという。

延宝9年(1681)7月9日伊佐津川氾濫で倉谷村前堤が決壊し堂社が流出した、御神体を鈴木神社(祭神:天細女命)のある上安村の、ミセヶ谷に移して同座奉斎されたという。

さらに社殿老朽化のため現社地に移ったが、高迫山頂に鎮座していた武場(たけば)権現(祭神:大山咋神)を招遷し、三柱を合祀したと伝える。

境内・社叢


社叢

  
鳥居                    一ノ鳥居・二ノ鳥居

 
手水舎                   舞殿(神楽殿)がある拝殿


ご由緒板

  
拝殿側面                本殿

  
拝殿から本殿をみる           本殿

地名・地誌

祭神の建田背命は丹後海部氏の祖神である。
當社ハ 元大内郷ニ鎮座マシマシ 丹波国造ノ祭リ給ヒシ御社ナリ
安康天皇ノ御宇 億計王オケオウ 弘計王ヲケオウ 此ノ国ニ忍ビ給ヒシ時 御崇敬アラセシト傳フ
降リテ慶長ノ代 田辺城主京極高知公 伊佐津川ノ瀬替ヲナシ 現状ノ如クナセシ為 其後堂社流失ノ災ニ遭ヒ給フ
此時 上安ノ某 大洪水ヲ豫知シテ 御神体ヲ負ヒ奉リ「みせんが谷」ニ遷シ奉リシヨリ 永ク上安ニ御鎮座ノ事トナリス
大内郷御本社ノ跡ハ 字宮知里トシテ慶応ノ頃マデ大木老松アリシガ 仝二年八月暴風洪水ノ為跡ヲ止メズ
現社殿ハ寛保三年十月ニ萱葺 神明造トシテ再建事始シ 翌延享元年三月完工セシモノナリ
「境内の案内板より抜粋」

高田神社は上安に鎮座。祭神は建田背命(丹後旧事記)とするが、「加佐郡誌」では天細(鈿)女命 を加えている。建田背命は丹波国等祖(丹後国式内神社取調書)とするが、天鈿女命を祭神とした経緯も判然としない。同社はもと伊佐津川に近い地に祀られていたが、京極氏時代に洪水を避けるため現在地へ遷した(明治五年祠官田中照海書)とされている。
《舞鶴市史》

もともと高田社(祭神:建田背命)はここにあったのではなく、鎮座地は洪水や社殿の老朽化などで度々その位置を変えたといわれる。社伝によれば、古くはずっと下の大内郷宮知(みやち)里とよばれた・現在の字倉谷と字上安との境にあたる杭(くい)ケ坪の辺りにあったという。

延宝9年(1681)7月9日伊佐津川氾濫で倉谷村前堤が決壊し堂社が流出した、御神体を鈴木神社(祭神:天細女命)のある上安村の、ミセヶ谷に移して同座奉斎されたという。

さらに社殿老朽化のため現社地に移ったが、高迫山頂に鎮座していた武場(たけば)権現(祭神:大山咋神)を招遷し、三柱を合祀したと伝える。

の中央部。五老岳南麓、もともとの上安はずいぶんと広く、日星高校の辺りから東側トンネル(榎・白鳥)までが全部上安であった。五老岳の頂上の展望台も上安である。
谷筋が違うが、清道・清美が丘・昭和台・寿荘のあたりももとは上安であった。

安康天皇の時代に億計王・弘計王が来国した際、国造稲種命が当地域に安宮を造り奉仕したといい、地名の由来はこの安宮が転じたことによるともいう。

地 図

交通アクセス・周辺情報

高迫の丘陵端 古墳2基
安田に安田古墳
五老岳展望台・スカイタワー

参 考

境内社を撮影したはずだが、シャッターを押せていなかったみたい。

「延喜式の調査」さん、「神詣」さん、「丹後の地名地理・歴史資料集」さん

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