式内 苅野神社
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概 要
社号 式内社 丹波国氷上郡 苅野神社
読 み:古 カリノ、現 かりの
江戸時代は「苅埜宮」「苅野大明神」と称していた
所在地 兵庫県丹波市柏原町上小倉字カツラ山270-1
旧地名 丹波国氷上郡
御祭神
葛原親王(かずらはらしんのう)
例祭日 11月24日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹波国(タンバ):71座(大5座・小66座)
氷上郡(ヒカミ):17座(並小)
近代社格制度 旧村社
創建 長和9年(1012)小倉村大嘗会主基進供
本殿様式 流造 銅板葺
境内摂社(祭神)
一口メモ
JR柏原駅の南、国道176号から下小倉(交差点)を県道86号で南へ。
上小倉の道沿いに神社がある。
歴史・由緒等
長和9年(1012)小倉村大嘗会主基進供
天正7年(1579)明智日向守光秀の兵火のため焼亡
寛文7年(1667)現地に社殿を造営し遷座
正徳4年(1714)社殿再建
明治6年10月村社
大正14年12月神饌幣帛料供進指定
昭和21年造営
延喜式内社。
本殿側面妻飾彫刻の手法は、桃山・江戸初期の造りである。屋根は文政10年(1827)桧皮に葺き替えられ、昭和54年(1979)には銅版葺となる。本殿内部からは、上棟式に使用されたと考えられる3丁の木槌が発見され、正徳4年(1714)の墨書が有り、木槌3丁は市指定文化財となっている。
文明3年(1471)時の管領細川勝元は、久下重元に小椋庄領家職の安堵状を授けている。領主久下氏の下に、小椋庄産土神として祀られてきたが、明智光秀が、織田信長「丹波攻略」にあたり、天正6年(1578)12月多紀郡(篠山市)境鐘ヶ坂の山上に位置する金山城に陣した際、其の麓に建つ苅野神社や社坊は悉く兵火によって焼失。
寛文7年(1667)苅野田の仮宮より現在地に造営遷宮され、旧苅野田の跡地は古宮と称し現存している。幕藩時代の知行は上小倉が植村土佐守の後・水野鶴牧藩、下小倉は織田氏の柏原藩と知行所を異にしているが、上・下小倉両村の産土神として信仰され崇敬されてきた。
「兵庫県神社庁」
境内・社叢
社頭 鳥居
参道石段と神門 手水舎
拝殿
拝殿扁額 本殿
社頭掲示板
地名・地誌
鐘ヶ坂
山陰道は、京から亀山(亀岡)~福知山を通る街道と、篠山から氷上へと下る坂道が鐘ヶ坂。現在は国道176号線が交通の動脈になっているが、かつてもここには街道が通り、丹波と摂津を結ぶ交通の要所であった。江戸時代に刊行された『但州湯島道中独案内(たんしゅうゆしまどうちゅうひとりあんない)』※にも、この付近の地名が記されているという。
※湯島…今の城崎温泉
この峠越えはかなりの難所であったようで、明治になってからトンネル掘削が計画され、3年近い工事の末、明治16年に完成した。レンガ造りの明治の隧道(ずいどう)は今も保存されているが、通常は閉鎖されていて通ることはできない。最近、近代化遺産として注目されるようになり、時折開放されているようだから、興味がある人は行ってみるといいだろう。トンネルの入り口には、工事にあたって寄付を寄せた人たちの名が刻まれた碑が建っているが、その数の多さは、この地域の人々がトンネルに寄せる期待がどれほど大きかったかを示している。
1967年には、自動車交通の発達に促されて二代目のトンネルが開通する。さらに2005年には新しいトンネルが開通し、2代目トンネルを通る車もほとんどなくなった。一つの峠に、明治・昭和・平成と、3本ものトンネルが同居する例は珍しいのではないだろうか。
新しい道が造られるたびに、古い道は通る人がなくなり、忘れられてゆく。神様が鐘を置いた場所も、今ではだれも知らないのである。
鐘ヶ坂を下って小倉まで行くと、苅野神社(かりのじんじゃ)がある。鐘を盗んで、逃げていった神様が祭られている神社である。現在の国道に並行した、山すそを巻く細い旧道に面して鳥居が建っていて、その奥に急な階段が続いている。そこを登り切ると、尾根に挟まれた細い谷筋を塞ぐように建てられた社殿に至る。
苅野神社は式内社(しきないしゃ)であるが、本来はもっと鐘ヶ坂のふもとにあったそうで、江戸時代の寛文年間に現在の位置に移されたということである。その故地までは訪ねる時間がなかったが、次に機会があれば是非行ってみたいものである。
それにしても、神様は、なぜ鐘を盗もうと思ったのだろう。いったいどこから盗もうとしたのだろう。尾根が迫る急な坂道に置き去られた鐘の正体は・・・。
参考:歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐
地 図
アクセス・周辺情報
参 考
『延喜式の調査』さん、他
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