宮川神社(式内 神野神社)
Contents
概 要
社号 宮川神社
読み:みやがわじんじゃ
江戸時代は「神尾神社」と称していた
延喜式神名帳 式内社 丹波国桑田郡 神野神社
読み: カムノ
所在地 京都府亀岡市宮前町字宮川神尾山2
旧地名 丹波国桑田郡
御祭神 伊賀古夜姫命(いかこやひめ のみこと) …丹波国神野の国神)
譽田別命(ほむだわけ のみこと) …応神天皇
例祭日 10月17日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹波国(タンバ):71座(大5座・小66座)
桑田郡(クワタ):19座(大2座・小17座)
中世社格制度
近代社格制度 旧村社
創建 欽明天皇32(571)宇佐八幡を勧請、大宝年間(701-04)山上に創始
本殿様式 流造檜皮葺
境内摂社(祭神)
貴船大神 玉依姫命社
一口メモ
神野神社の論社は三社あり、ひとつだけ残っていたのが当社であった。以前2度も近くの籔田神社まで来ていながら機会を逃していた。
宮川集落から神尾山麓へ傍らに新しい社があり、細い参道が伸びて進むと「延喜式内 宮川神社」の社号標があった。宮川集落の氏神神社なら宮川神社でいいし、外部からとやかく云うべきことではないが、延喜式内社は神野神社で宮川神社は当時は存在していない。延喜式内とするなら宮川神社ではなく神野神社とすべきで紛らわしいと思う。
数段の石段を登ると左手に鳥居と広い境内までの美しい参道と社叢が広がった。そのギャップに驚く。
宮川神社 当社
玉依神社 亀岡市東別院町湯谷岳山78 彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊 玉依姫命
道相神社 南丹市美山町宮脇ヒノ谷43-1 神武天皇
歴史・由緒等
もとは山上の金輪寺にあった。
享保2年(1717)現地に社殿を建立。鎭座地は山から降り山麓に社地が営まれ、宮川の地名をつけて宮川神社となった。
神代の昔、建角身命「タケツノミノミコト」は神武天皇が紀州熊野から大和に入る際、八呎烏に変身して神武天皇の一行を先導した。
この神は当時出雲族の勢力が丹波に及んでいた豪族の娘、伊古夜姫命と結婚した。
この伊古夜姫を祀った神社が亀岡市の宮川神社で別名神野「カムノ」神社と言われている。このカムノが転語して「賀茂」となったと伝えられている。
「延喜式神社の調査」さん
当社の創建は文武天皇大宝年間(701-8)山上に伊賀古夜姫命を鎮めたのが起源とされ古くは神野山と称し延喜式にいう神野神社に比定される。また、誉田別命(八幡大神)は欽明天皇32年(571)に宇佐八幡宮より神野山山中に遷し祀られたと伝えられ今に社地を八幡平という。天正5年(1577)明智光秀と波多野秀治の合戦の際両社とも焼失し、その後落雷不作が続いたので正保4年(1647)山麓の現在地に社殿を移し二神をあわせ祀り名称も宮川神社と改めたと伝えられる。伊賀古夜姫命は京都下鴨神社の際神玉依姫命の母神であり、下鴨神社と関係深く葵祭の行列には氏子青年が奉仕に参加している。
「社頭掲示板」
創祀は大宝年間(701~704)と伝へるが、誉田別命の祭祀はそれより遡るであらう。
御祭神は伊賀古夜姫命・誉田別命。
延喜式内社の神野神社に比定される。
伊賀古夜姫命は下鴨神社の賀茂建角身命の妻神にして、上賀茂神社の賀茂別雷神を産み給うた玉依姫の母神である。宮川神社の氏子二十余名が宮内庁のお召しにより葵祭に奉仕に出、また宮川神社の例祭には宮内庁より参拝がある。
神尾山(古くは神野山)の山麓に鎮座します。式内社の神野神社に比定されてゐますが、まづここに間違ひないでせう。ここは中世には丹波の土豪の本拠地の一つであつた神尾山城がありました。神野神社は元は神尾山中の八幡平に鎮座してゐましたが、天正年間の光秀の丹波攻めで神尾山城と共に兵火にかかり焼失、正保四年(一六四七)、徳川家光の時代に現在地に遷座しました。その時に村の名を冠して宮川神社に改めました。
-「丹波の神社」さん-
境内・社叢
参道 鳥居・社号標
まっすぐに長い参道 反対側から
社頭掲示板
狛犬
拝殿(舞殿)
手水舎 拝所
本殿 本殿覆屋
参道入口に新しい社 詳細は知らないがおそらく集落に便宜上設けられた拝所だろうか。
地名・地誌
地 図

交通アクセス・周辺情報
参 考
『延喜式の調査』さん、他
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