式内大 竹野(たかの)神社
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概 要
社号 式内社 丹後国竹野郡 斉宮・竹野神社
読み 古 タカノ、現 たかの
江戸時代は「齋宮神社(いつきのみやじんじゃ)」と称していた
所在地 京都府京丹後市丹後町宮小字宮谷245
旧地名 丹後国竹野郡
御祭神
主祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
相 殿 竹野媛命(たかのひめ のみこと) 日子坐王命(ひこいますおう のみこと) 建豊波豆良和気命(たけとよはらわけ のみこと)
例祭日 9月10日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
大37座(就中一座月次新嘗)小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
竹野郡(タカノ):14座(大1座・小13座)
式内社(大)
近代社格制度 旧府社
創建 年代不詳
本殿様式 一間社流造
境内摂末社(祭神)
境内摂社 齋宮
境内末社
門齋神社・伊豆神社・稻荷神社・十二神社
・上神明神社・下神明神社・大社・野々宮神社・愛宕神社・矢崎神社
文化財
京都府登録文化財
竹野神社 本殿 文政13 (1830)年建造
竹野神社 末社斎宮神社本殿 文政13 (1830)年建造
竹野神社 中門 文政年間頃建造
京都府文化財環境保全地区
竹野神社文化財環境保全地区
一口メモ
国道178号線から府道75号線を南に下ると、史跡神明山古墳の傍らに鎮座しています。「延喜式」神名帳に記される式内大社に比定される立派な神社です。式内大社は律令制の官幣大社で名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社を「名神大」、それ以外を「式内大」と記載します。
歴史・由緒等
竹野神社は、「延喜式」の神名帳で大社として記される。祭神は天照大神であり、本殿と並んで摂社斎宮神社があり、祭神として日子坐大命、建豊波豆良和気命、竹野媛命を祀る。竹野媛は丹波大県主由碁理の娘で、第9代開化天皇の妃となる。「古事記」「日本書紀」にも記され、竹野神社は竹野媛が年老いて天照大神を祀ることに始まると伝えられる。
斎宮神社には、第31代用明天皇の皇子である、麻呂子親王も祀られ、鬼賊退治と丹後七仏薬師の伝承がある。この伝承は「等楽寺縁起」「斎明神縁起」として絵巻に描かれ、京都府登録文化財となっている。
現在の社殿は文政13年(1830)に再建されたものである。本殿は規模の大きな一間社流造で装飾が抑えられた荘厳な建物であり、斎宮神社本殿は対照的に小振りな一間社流造で賑やかな装飾を有している。中門は神社の門としては珍しい向唐門の派手な印象を与える建物で、いずれも京都府登録文化財として指定されている。
この地に竹野区に伝えられ、竹野神社の祭礼に演じられる郷土芸能「竹野テンキテンキ」は、子供六人からなる素朴なものであるが、風流囃子物の古い形をのこす芸能で、京都府登録文化財に指定されるなど優れた文化財を伝えている。-京丹後市教育委員会「社頭掲示板」-
斎宮神社には、第三十一代用明天皇の皇子である、麻呂子親王も祀られ、鬼賊退治と丹後七仏薬師の伝承があります。斎宮神社本殿は対照的な小振りな一間社流造で賑やかな装飾を有しています。これらの建物は、間人(たいざ)村や当村の大より建立されたそうです。 本殿よりも、摂社の方が参拝者が多いようで、こちらが元の祭神だったようです。丹波(丹後)が大和政権下に入って、主祭神が「天照皇大神」(あまてらすすめおおかみ)に替えられたけれど?ほんとはね、という証明が隠されているよう。 籠神社と真名井神社、伊勢神宮内宮(皇大神宮)と外宮(豊受神宮)の関係にも似ています。 隠野(こもりの)とは、黄泉に通じる国という意味。 竹野媛命は、竹野の里を国府としたとの伝承を持つ丹波の大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃となり、比古由牟須美命を生んだと『古事記』に記載されている。竹野神社は竹野媛は年老いて郷里に帰り、天照大神を奉祀したのが創建とされる。斎宮の創祀もその頃と言う。 当社一体の地域は早くから開けた所であった。弥生前期の竹野遺跡をはじめ、神明山古墳、産土山古墳などが知られている。
境内・社叢
中門 中門は神社の門としては珍しい向唐門の派手な印象を与える建物で、左右に桟敷舎(さじきしゃ)と神輿庫(みこしこ)が置かれている。
拝殿 普通なら拝殿の位置だが、奥の本殿に拝殿の鈴がある。 摂社斎宮(いつきのみや)神社
境内社 境内右手の池の前
地名・地誌
地 図
交通アクセス
周辺情報
竹野遺跡をはじめ、神明山古墳、産土山古墳、
丹後町古代の里資料館
など
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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