式内 桃島神社
Contents
概 要
社号 桃島神社
延喜式神名帳 式内社 但馬国城崎郡 桃嶋神社
読み: 古 モモシマ 現 ももしま
江戸時代は「八幡神社」「雷電宮」と称していた
所在地 兵庫県豊岡市城崎町桃島字宮脇1339-1
旧地名 但馬国城崎郡田結郷桃嶋村
主祭神 大加牟豆美命(オオカムズミのみこと)
配祀神 桃島宿祢命(ももしまのすくねのみこと) 雨槻天物部命(あまつきあめのもののべのみこと)
『国司文書・但馬神社系譜伝』『国司文書・但馬故事記』
主祭神 桃島宿祢命(ももしまのすくねのみこと)
配祀神 両槻天物部命(なみつきあめのもののべのみこと)
例祭日 10月14日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
城崎郡(キノサキ):21座(大1座・小20座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 流造 柿葺
境内摂社(祭神)
一口メモ
豊岡市城崎町桃島公会堂の付近だろうと思い、桃島池の手前の豊岡市役所城崎総合支所のある道を西へ。JR山陰本線ガード脇から丘の手前に鳥居が見えた。あらかじめ予習していたのだけど、桃島区は列車から見たことはあるが行ったことがなかった。城崎温泉駅を過ぎるとすぐ短い桃島トンネルがある。これを抜けると豊岡市竹野町。現在は、海岸沿いの県道11号を除くと竹野に抜けるには湯島から鋳物師峠から県道のみであるが、ここに城崎温泉(古名は湯島)唯一の式内社があるということは、かつては竹野へ抜ける別の往来があったのかも知れない。
神社の丘は桃山と呼ばれていたようだが、『式内社調査報告』では、向山とか氏神山とも記されている。
歴史・由緒等
由 緒
当社付近の地に桃島宿祢の住して土地開拓に従いしかば同宿祢命を祀りしものなり。
その後両槻天物部命の裔波多宿祢祖を当社に配祀せり。
その後大加牟豆美命を祭神とし延喜式の制小社に列し明治6年(1873)10月村社に列せらる。-「兵庫県神社庁」-
『国司文書 但馬故事記』城崎郡に、
人皇二十二代(異説あり)雄略天皇の二年秋八月、{西刀宿祢|せとのすくね}の子{桃嶋宿祢|ももしまのすくね}を以って、城崎郡司と為す。桃嶋宿祢は西刀宿祢を瀬戸に葬る。西刀宿祢は一に{阿刀宿祢|あとのすくね}という。(式内 西刀神社:豊岡市瀬戸)
人皇二十五代武烈天皇の七年夏五月、{味饒田命|うましにぎたのみこと}の裔・{熊野連|くまののむらじ}を以って、城崎郡司と為す。熊野連は味饒田神を以って、氏神とし、改めてこれを齋き祀り、久麻神社と申しまつる。(式内久麻神社:豊岡市福田)
また{両槻天物部命|なみつきあめのもののべのみこと}の裔・{波多宿祢|はたのすくね}を遣わし、{桃嶋宿祢|ももしまのすくね}を{百嶋|ももしま}丘に祀る。(配祀 両槻天物部命 式内桃嶋神社:豊岡市城崎町桃島)
境内・社叢
参道入口に古い小ぶりな社号標
鳥居 参道が細いので車を降りて歩く事にする。
桃山石 案内看板が倒れていた。
案内によると、但馬出身沢庵和尚の桃島の詩が刻まれているようだ。
桃山を開拓した人が発見した石に詩を刻んだようだ。
石碑「菊屋島離農の碑」 参道
瑞垣(みずがき) 本殿覆屋
参道右脇に稲荷社
神社入口の北奥に鳥居がある 参道らしき石段があるので古社地は山頂だと思う。
摂外社というのか4社あった。
さらに右手に参道らしき道があり、地図を見ると山頂に四角い図がある。古社地の祠か何かだろうが、小雨で滑りそうなので諦めた。
地名・地誌
城崎郡田結郷 のち気比庄
桃島(桃嶋)
今の村数
森津・瀧・新堂・岩熊・江野(ゴウノ)・伊賀谷
右 大濱(浜)庄と云う。
下鶴井・赤石・結(ムスブ)・戸島・楽浦(ササノウラ)・飯谷(ハンダニ)・畑上・三原
右 下鶴井庄と云う。
上山(ウヤマ)・簸磯(ヒノソ)・来日(クルヒ)・今津
右 灘と云う。
気比(ケヒ)・田結(タイ)・湯嶋・桃島・小島・瀬戸・津居山
右 気比庄と云う。
『国司文書 但馬郷名記抄』に、
黄沼前郷は古の黄沼海(キノマウミ)なり。この故に名づく。昔は上(カミ)、塩津大磯より、下(シモ)、三島に至るの間一帯の入江なり。これを黄沼海という。黄沼は泥の水湛なり。
(水湛 湛はたたえるで、水が満ちているようす。湛水は人工的に水をたたえること、貯めること)
黄沼前島は、黄沼島・赤石島・鴨居島・結浦島・鳥島・三島・小島・小江・渚浦・干磯・打水浦・大渓島・茂々島(これが桃島だろう)・戸浦など、その中にあり。
天火明命(あめのほあかり のみこと)、国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜を為す。あるいは地震・山崩れにて島涌き出で、草木青々の兆しを含む。
天火明命、黄沼前を開き、墾田と為す。故に天火明命、黄沼前島に鎮座す。小田井県神これなり。
降りて、稲年饒穂(いきしにぎほ)命・味饒田(うましにぎた)命・佐努(サヌ)命あいついで西岸を開く。
与佐伎命は、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き、墾田と為す。
(中略)黄沼前島はいわゆる豊岡原なり。
円山川下流は「黄沼海(キノマウミ)」といわれる入り江で、湯嶋・桃島・小島・簸磯島等の小島であった名残り。それより上の小田井以南を黄沼前海(キノサキノウミ)といい、黄沼前郷、のち城崎郷となる。