式内 地祇神社
Contents
概 要
社号 地祇神社
読み ちぎ
明治初めころは、地主神社と呼ばれていた
延喜式神名帳 式内社 山城国綴喜郡 地祇神社
所在地 京都府京田辺市普賢寺下大門65
御祭神 活気長足比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
配祀神 大山祇命(おおやまつみのみこと) 大国主命(おおくにぬしのみこと)
例祭日 10月18日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
綴喜郡 14座(大3座 小11座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式 三間社流造板葺
境内摂末社(祭神)
祈雨神社(天之水分神)・稲荷神社(豊宇気毘売神)
一口メモ
信号から観音寺へ。その横手の道を捜したが、その気配はなく引き返し、観音寺前の駐車場に止めて、観音寺内を散策すると本堂北西横にあった。
歴史・由緒等
大国主命 大山祇命 活気長足比売命をまつる式内社である。
明治初めのころは、地主神社と呼ばれていた。
正徳元年(1711)の「山州名跡志」には、大御堂(現在の観音寺)の鎮守として、権現大明神と地主権現の二柱がみえる。
現在の本殿は三間社流造で地主権現の三社がみえる。覆い屋の石壇に天文十年(1541)卯月吉日大西備前守と刻まれたものがある。当時、このあたり普賢寺を中心に結束し、大西氏は指導的立場のひとりであった。元亀四年(1573)将軍足利義昭が槇島城で織田信長に対し挙兵するが敗れ、義昭は普賢寺谷を経て河内若江城へ出奔する。地元の所伝では大西備前守敏元が足利側でこれに参戦し、将軍に従い若江城で討ち死にしたとされる。
京田辺市教育委員会
境内・社叢
鳥居
社頭掲示板
参道石段
拝殿
本殿 境内社
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