式内 祝園神社
Contents
概 要
社 号 祝園神社
読み ほうその
近世は春日
延喜式神名帳 式内社 山城国相楽郡 祝園神社 大 月次新嘗
所在地 京都府相楽郡精華町祝園
御祭神 建御雷命(たけみかづちのみこと) 経津主命(ふつぬしのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと)…春日大神(春日三神)
風土記には羽振苑社とし、大歳神、伊怒比女神、曾富理神とあり
例祭日 例祭10月10日、いごもり祭(毎年正月甲申の日より3日間)
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
相楽郡 14座 大3座 小11座
式内社
近代社格制度 旧郷社
創建 崇神天皇10年9月『日本書紀』、神護景雲4年1月21日春日の大神を御勧請し創祀 (社伝)
本殿様式 流造
境内摂末社(祭神)
本殿左手 天満宮(菅原道眞公) 西宮神社(祭神事代主命)
本殿右手 大神宮(大日要命) 熊野神社(伊邪那岐神)
本殿背後 熱田神社(日本武尊) 祈雨神社 有功神社(布留御霊神・道臣命相殿) 出雲神社(大己貴命) 稲荷神社(稻倉魂命)
文化財
いごもり祭 無形民族文化財指定
木津川一口メモ
木津川にかかる開橋西詰に社叢が見えるが裏手になる。西へ戻り信号を集落内に入ると突き当りが当社。
木津川市の相楽神社は“サガナカ”と読むが、その真北で近い位置にある精華町の当社祝園神社も“ホウソノ”と読むそうだ。
歴史・由緒等
社記によれば、崇神天皇の時代に、この地で討伐された武埴安彦(たけはにやすひこ)の亡魂が鬼神となって柞ノ森(ははそのもり)に止まり、人々を悩ませていました。これを鎮めるため、春日大明神を勧請して創立されたのが同神社であるといわれています。現在に伝わる「いごもり祭」も、この時の斎戒沐浴(さいかいもくよく)しての祈願に始まるといわれています。
文献では「新抄格勅符抄」に「祝園神」の名が見えるのが最古であり、少なくとも、奈良時代には確実に存在していたと思われます。その後「延喜式」神名帳、「三代実録」に名が見え、嘉吉元年(1441)に書かれた「興福寺官務牒疏」には在僧2人、祝主3人、神人3人がいたことが記されています。「精華町」
境内・社叢
鳥居・社 号標 神門
手水舎 割拝殿
狛犬
本殿左手 西宮神社(祭神事代主命) 天満宮(菅原道眞公)
本殿右手 熊野神社(伊邪那岐神) 大神宮(大日要命)
本殿背後 稲荷神社(稻倉魂命)・出雲神社(大己貴命) 有功神社(布留御霊神・道臣命相殿)
祈雨神社 熱田神社(日本武尊)
地名・地誌
祝園(ほうその)
『日本書紀』書紀・崇神10年9月条には、
「大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して
為に部下達はおびえて逃げたが、これを河の北に追って破り半分以上の首を斬った。屍が溢れ、そこを羽振苑(ハフリノソノ・今の祝園)と名づけた」 (大意-この後、敗れた兵達が現枚方市樟葉まで逃げ降伏した。その時の敗兵の様子から樟葉の地名が起こったとの地名説話に続く)とある。
この伝承にいう羽振苑の“ハフリ”即ち“ハフル”は“放棄”の意で“、死骸を投げる捨てる”あるいは“その場所”を意味し、それが転じて“祝園・ハフソノ”となり、今の“ホウソノ”となったという。
地図
交通アクセス・周辺情報
- 近畿日本鉄道・京都線新祝園駅下車、徒歩20分。
- JR西日本・学研都市線(片町線)祝園駅下車、徒歩20分。
参 考
「精華町HP」、「戸原のトップページ」さん、「延喜式の調査」さん
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