式内 長寸神社
Contents
概 要
社 号 長寸神社
読 み ながきじんじゃ
式内社 近江国蒲生郡 長寸神社
江戸時代は「長寸下之社」「山崎宮」
所在地 滋賀県蒲生郡日野町中之郷1565
御祭神
御神紋 左三ツ巴
例祭日 4月 17日 春祭り
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
東山道 式内社382座 大42(うち預月次新嘗5) 小340
近江国 155座 大 13座 小 142座
蒲生郡 11座 大1座 小10座
※
長寸神社論社
長寸神社 事代主命 天照荒魂神 滋賀県蒲生郡日野町中之郷1565
苗村神社(東本殿) 那牟羅彦神 那牟羅姫神 滋賀県蒲生郡竜王町綾戸467
近代社格制度 旧村社
創建 天慶元年(781)右大臣中臣清磨が勧請
本殿様式 一間社流造 千鳥破風付 間口一間一尺 奥行一間一尺
境内摂末社(祭神)
藤切神社 大屋神社 賀川神社 諸木神社 八坂神社 天満天神社
一口メモ
日野町役場前河原西交差点で県道504号線を北東に約3km。竜王町の苗村神社東本殿にも式内長寸神社がある。そちらは「なむら」と読み、寸は村の略字なので、本来は「なむら」ではないだろうか。
「社頭掲示板」には、「創祀は人皇第49代光仁天皇の馭宇天慶元年右大臣中臣清麿公大和春日社別宮摂社の内として此の地に勧請せるものにして…古は長寸山(ながす)の尾崎に祀れるを以て山崎宮とも称し応永及文和年間の社宝にも山崎宮と記せり。」
この長寸山(ながす)に連なる最南端に神社がある。長寸神社の読み方は「ながす」ではなく「ながき」となっているのも謂れは不明であるが、「ながす」が“流す”につながるので、縁起の良い「ながき」と改めたのでは。苗村神社の“なむら”で、『日本書紀』にある天日槍がとどまった淡海吾名邑が苗村であると言われている。
歴史・由緒等
当社が鎮座の地は古え蒲生上郡長寸郷奥津保と称し長寸山の麓長寸川(一名左久良川)の渓流近き地に鎮座す。
創祀は人皇第49代光仁天皇の馭宇天慶元年右大臣中臣清麿公大和春日社別宮摂社の内として此の地に勧請せるものにして、延喜式神名帳所載蒲生郡十一座中の社あり。古は長寸山(ながす)の尾崎に祀れるを以て山崎宮とも称し応永及文和年間の社宝にも山崎宮と記せり。本殿の創建は紀年詳ならずと雖も再建数度に及び文和4年修復次いで元禄16年建■現在に至る。
当社の摂社として祀れる賀川(長寸下社)諸次(長寸別宮)大屋(杉杣大宮)藤切(大宮別宮)の四社は古来長寸上社たる当社と共に五社大明神と称し神輿渡御を始め三郷雨乞の神事等当社が常に郷内最首の総社として奥津保一円の中心となり郷民の深き崇敬を聚め来たりしものにして亦招福神及疫病除神として近郷の信仰厚き名社なり。
尚境内に古跡として勅使桜及龍石橋残存す。「社頭掲示板」
蒲生郡志によると「延喜式神名帳本郡十一座の中なる長寸神社なりと伝う。興福寺官務牒疏に云く 善通教釈寺在近江国蒲生郡長寸郷奥津保中之郷云々中略僧房総数七十宇鎮広峰天王、右四箇寺者光仁天皇宝亀三壬子年善珠僧正本願之伽藍也、殊為長寸上下神大屋神之法楽精舎処也。長寸神 在同所山崎祭所積羽八重事代主神天照荒魂神素盞烏神、社僧二人神人六人楽頭日吉太夫云々 当社は左久良山の南端に祀らる故に古へは山崎宮と称したり、社蔵史料に文和4年の棟礼及び応永8年の金口以下数点あり、山崎宮と記す、享徳3年の奥書ある社記には長寸神社、一に山崎大明神というと見ゆ」と記している。明治9年村社に列す。同41年神饌幣帛料供進指定。
4月 17日 春祭り
長寸神社で祭典を終えると、大屋神社まで大幣を立てて渡御し、祭典後、二柱の大幣にて再び長寸神社へ渡御し盃を交す。その後両神社の道半ばにて、各々還御する。長寸大神が大屋大神を迎え、もてなして送る祭りといわれている。 明和(1764~71)年間の頃までは、二社の神輿によつて渡御が行われたと伝えられる。
「滋賀県神社庁」
境内・社叢
鳥居・社号標 手水舎
狛犬
拝殿 中門・玉垣
中門拝所 本殿
本殿左手境内社
本殿右手境内社
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地 図
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