村社 大家神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 大家神社
読 み おおやじんじゃ

所在地 兵庫県豊岡市城崎町ゆい148

旧地名 但馬国城崎郡田結郷ムスブ
御祭神 大家首彦直倭命おおやびひこなおやまとのみこと

『国司文書 但馬故事紀』 彦真倭命ひこなおやとのみこと (大家首手束の祖)
御神紋
例祭日 10月14日

社格等

近代社格制度 旧村社
創建   淳和天皇天長9年(832)
本殿様式 不明

境内摂末社(祭神)

歴史・由緒等

淳和天皇天長9年(832)11月従8位上佐伯直弘主を以て城崎郡大領に道守臣貞躬を以て主政に大家首手束を以て主帳に任ず。道守、大家とも大初位下を授く。道守臣貞躬の祖建豊葉頬別命を智坂の丘に祀り道守神社と称し、大家首手束の祖彦眞倭命を結の丘に祀りて大家神社と称す。

而して大家神社は大家氏の祖を祀りたる社にして初め上ヶ谷にありしも地遠隔にして参拝不便なるを以て安永9年(1780)竹の内に移転せり。

明治6年(1873)10月村社に列せらる。

「兵庫県神社庁」

人皇54代淳和天皇の天長9年冬11月、従八位上 佐伯直弘主を以て、城崎郡大領に任じ、道守臣貞躬を以て主政に任じ、大家首手束を以て主帳に任じ、道守・大家共に大初位下を授けられる。

道守臣貞躬はその祖健豊葉頬別命を智阪丘に祀り、道守神社と申し祀る。

大家首手束はその祖彦真倭命を結丘に祀り、大家神社と申し祀る。

『国司文書 但馬故事紀』

一口メモ

城崎温泉へ向かう県道3号線に円山川まるやまがわ右岸のゆい集落へ通じる橋がかかっており、まっすぐ進めば結。その集落の中ほどに細い参道がまっすぐ延びており鳥居。石段を少し登った集落の南の丘に鎮座。

『国司文書 但馬故事紀』(第四巻 城崎郡故事記)に記載がある神社なので訪れてみた。

兵庫県美方郡新温泉町二日市(古くは二方郡大庭郷大家村)に式内大家神社がある。大家首(おおやのおびと)の首は村の首長。

律令下では、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。中央の官人が任期制で派遣されていた国司と異なり、郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官であった。
では、二方郡の大家首の家系が城崎郡の郡司として主帳となれたのだろう。大家首手束は二方郡の大家首の分家で、すでに結あるいは城崎郡内に定住していたのだろう。大家首は姓のようなもので、本貫地二日市の大家神社を勧請しその先祖である彦真倭命を祀ったものであろうと解釈する。

境内・社叢

  
鳥居 本殿覆屋                  参道

  
鳥居脇の古い狛犬

   
境内狛犬

  
扁額「大家社」                  左境内社 赤い鳥居なので稲荷社だろう

  
石の小社が2つ 祭神不明

地名・地誌

結(ゆい)

『国司文書別記 但馬郷名記抄』
伎多由きたゆ結浦ゆうのうら

田結連たいのむらじこの地に住む。故に田結郷と名付く。海童わたつみ神(海神社=今の絹巻神社)の後なり。

伎多由郷は、「魚昔きたゆ」(魚編に昔)貢進の地なり。この故に名付く。小魚 「魚昔」の地。「魚昔」は古語にて伎多由きたゆまたは伎多伊きたいなり。

大浜(今の森津・滝・新堂)・与佐伎村(今の下鶴井)・赤石島(今の赤石)・結浦(今の結)・鳥島としま(今の戸島)・三島・干磯浜打水浦ひのそはまうたみうら(多分今の二見・上山、あるいは楽々浦も含むか?)

久流比(今の来日)・気比浦・白神山・[魚昔きたひ](今の田結たい)・大渓島(今の湯島)・桃嶋・小島・西刀(今の瀬戸)

「魚昔」を調べると、音では「シャク・サク」。訓で「さめ」

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考


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