村社 賀茂神社
Contents
概 要
社 号 賀茂神社
読み かもじんじゃ
加茂土師部神社 祭神 野見宿禰命 『国司文書別記 但馬故事記』と想定する
所在地 兵庫県豊岡市但東町矢根943
旧地名 但馬国出石郡埴野郷矢根村
御祭神
御神紋
例祭日 10月9日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳
本殿様式
境内摂末社(祭神)
複数の稲荷社等
一口メモ
国道426号線を出石から東へ寺坂小学校を過ぎると大きく左にカーブし、ぽっと&potという喫茶レストランがある。そこから約250mの北側。矢根の西はずれにある。気をつけていても見落としてしまいバックした。急ではないが、長い石段が幾重にも続く。参道にキツネの置物が置かれた稲荷社と思われる境内社とその他は不明の境内社が2ヶ所ある。
歴史・由緒等
継体天皇11年桐野命其祖を祀ると伝え祭神賀茂縣主命或は野見宿祢とも称す。何れが是なるかを知らざるも明細帳には別雷命とせり。
鎌倉時代賀茂社領となり江戸時代享保12年(1727)本殿を建立し文政5年(1822)正遷宮を行えり。
明治6年(1873)10月村社に列せらる。「兵庫県神社庁」
人皇21代雄略天皇2年秋8月 磯部臣命の子、埴野命を以て、出石郡司と為す。埴野命は磯部臣命を出石丘に祀る。(式内 石部神社)
17年春3月朔 天皇土師連等に勅して、朝夕の御膳を盛るべき清器を進ぜしめ給う。
これにおいて、土師達の祖、吾笥は、すなわち
摂津国来狭々村、山背国内村・俯見村(いまの伏見)、伊勢国藤形村および丹波・但馬・因幡の私民部*1を進め、贄土師部と云う。
丹波国天田郡土師村(いまの福知山市)・因幡国智頭郡土師村、但馬国出石郡埴野村・養父郡土田村・気多郡陶谷村(いまの豊岡市日高町奈佐路)・美含郡阿故谷村、これなり。
美含郡陶居村は、この郡埴野村埴田の陶人が移住して、陶器・土師を作る所。その子孫埴生に帰り、その業を営む*2。この郡の贄埴師が居るところを
挺師 村という。(のち矢根)
埴田の陶人が居るところを埴田山と云う。
清器 を作るところを御出石村(いまの水石)と云う。鋺師・陶人は此の所に居る。
贄埴師部 は野見宿禰 命を挺師村に祀り、(加茂土師部神社、賀茂神社か?)
埴田陶人は阿笥命を埴田山に祀り、(埴田神社、今の畑?)
鋺師陶人はその祖、高麗国人宝輪王を弖良坂山に祀る。(鋺師神社)
賀茂神社・埴田神社・鋺師神社はこれなり。『国司文書別記 但馬故事記名記抄』第五巻・出石郡故事記
*1 私民部 貴族・豪族などに私有され,国家の直接の支配を受けない人民。日本古代の部民(べみん)などがこれにあたる。645年(大化元年)即位した孝徳天皇は、翌646年(大化2年)新たな施政方針を改新の詔として、こうした私的所有・支配を禁止し、全ての土地・人民は天皇(公)が所有・支配する体制の確立、すなわち私地私民制から公地公民制への転換を宣言した(「公地公民制」)。
*2 第一巻気多郡故事記には、「18年春4月 気多郡陶谷村の人、陶谷甕主、出雲国阿故谷の人、阿故氏人、小碗氏人等美含郡に入り、阿古谷・陶谷・埴生・小碗において、陶器・清器の類を作り、部落を為す。」
境内・社叢
鳥居 御神燈
参道 割拝殿または神門
境内 本殿覆屋
狛犬
本殿右手に手水
境内社 稲荷社
参道右手境内社
地名・地誌
『国司文書・但馬郷名記抄』には、
出石郡埴野郷
埴野郷は贄土師部在住の地なり。この故に名づく。
日野辺・桐野・御出石・埴部・埴師部・出合
『太田文』曰く出石郡
村数
上野・日野辺・桐野・寺坂・
右土野庄と云う。これより東を、すべて山ノ中と称す。
市場・
右
地 図
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