村社 八坂神社(豊岡市竹野町奥須井)
Contents
概 要
社 号 八坂神社
読 み やさかじんじゃ
埴生田神社 美含郡佐須郷陶居村 祭神
所在地 兵庫県豊岡市竹野町奥須井無番地
旧地名 美含郡佐須郷陶居村
御祭神
御神紋
例祭日 10月1日
社格等
近代社格制度 旧村社
創建 白凰年間(661~683) (雄略天皇17年(473) 『国司文書・但馬故事記』)
本殿様式
境内摂末社(祭神)
稲荷神社
一口メモ
県道11号線竹野から西へ約3.5km。下記の『国司文書・但馬故事記』の「埴田陶人は、その祖、
歴史・由緒等
[註] *1 阿故谷 今の豊岡市竹野町阿金谷にある石原神社は、人皇55代文徳天皇3年秋9月 日下部良氏がその祖、彦湯支命を祀ったものだと思われる。伝え云う。白鳳年間須佐之男命海上より御舟にて切浜川尻に着船あらせられ、同所字トンホウシ山嶺に燈明ひかり、神徳顕現せしかば、土民直に社殿を造営せしに創まるという。
中古再び神託を奉じ奥須井字入河原へ遷座せり。
明治6年(1873)10月村社に列し同26年(1893)社殿境内神社と共に流失し、同30年(1897)之を再建す。「兵庫県神社庁」
人皇21代雄略天皇17年(473)春4月 出雲国
土師連 の祖・吾笥 の部属 、阿故氏人等部属を率いて、阿故谷*1に来たり、清器 を作る。阿故は赤土なり。
よって埴 を延ばすことを名づけて、蕩 と云う。ゆえにその場所を蕩森 とも云う。(蕩は止呂呂久 と云うべし。のち単に蕩と云い、また森とも云う。故に阿故を置く谷を蕩と云う) (式内阿古谷神社・森神社 豊岡市竹野町轟)夏5月 気多郡
陶谷 の人、陶谷甕主 、部属を率いて、また来たり。(気多郡陶谷はいまの豊岡市日高町奈佐路 式内須谷神社:豊岡市日高町藤井)
小埦甕人 また来たり。清器 を作る。
出石県埴野邑 埴田陶人は陶居邑 に移住し、陶器・土器を作る(豊岡市竹野町奥須井)。のち土生に帰り、その業を営む。埴生邑*3は陶谷氏人この地に住み、その業を為すなり。(香美町香住区に土生があるが、「土生に帰る」とあるから出石県埴野邑では?今の豊岡市出石町桐野?埴生邑は竹野町羽入)
阿故氏人は阿居王(一に吾笥)を阿故谷丘に祀り、阿故谷神社と申しまつる。(蕩ノ森宮これなり)
陶谷甕主はその祖、野見宿禰 命を陶谷丘*4 に祀り、陶谷神社と申しまつる。(斎主森宮これなり)
小埦甕人はその祖、建小埦根命を小埦丘*5に祀り、小埦神社と申しまつる。(豊岡市竹野町小丸)
埴田陶人は、その祖、大襲盤命 を陶居丘に祀り、埴生田神社と申しまつる。『国司文書 但馬故事記』(第六巻・美含郡故事記)
*2 気多郡陶谷 今の豊岡市日高町奈佐路 (式内 須谷神社(豊岡市日高町藤井)
*3 埴生邑 今の豊岡市竹野町羽入
*4 陶谷丘 今の豊岡市竹野町須谷があるので院森神社かと思っていたが、院森神社の現在地は平地である。陶谷丘に祀りとあるから、鬼神谷の現八幡神社ではいか
*5 小埦丘 今の豊岡市竹野町小丸 現八坂神社
境内・社叢
川を渡る。
社号標 鳥居
手水舎 割拝殿
左右に2対の狛犬 手前は構え型、奥は一般的な座り型 構え型でピンとくるのは、出雲型。狛犬は
拝殿 拝殿と本殿覆屋がつながっている
境内社稲荷神社
地名・地誌
『国司文書・但馬郷名記抄』(975)
美含郡佐須郷
地 図
交通アクセス・周辺情報
浜須井から奥須井へ途中にJR山陰本線の古いレンガ橋梁
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