府社 御霊神社(上御霊神社)
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概 要
社 号 御霊神社 通称:上御霊(かみごりょう)神社
読み: ごりょう
所在地 京都市上京区上御霊竪町495
旧地名 山城国愛宕郡
御祭神
本殿八座(八所御霊)
崇道天皇:早良親王、光仁天皇の御子、桓武天皇の同母弟
井上大皇后:光仁天皇の后
他戸親王:光仁天皇の子
藤原大夫神:藤原広嗣
橘大夫:橘逸勢
文大夫:文屋宮田麿
火雷神:菅原道真
吉備大臣:吉備聖霊
相殿五座
相殿 三社明神四座 小倉実起 小倉公連 中納言典侍局 小倉季伴
配祀 若宮:和光明神(菅原和子)
例祭日 5月18日(御霊祭)
例祭の御霊祭は明治までは8月18日(旧暦)に行われていたが、現在では5月18日(新暦)に行われている。御霊祭は京都(洛中)で最も古い祭りと言われる。
社格等
近代社格制度 旧府社
創建 貞観5年(863年)
本殿様式
境内摂社(祭神)
神明神社、稲荷神社、厳島神社、花御所八幡宮、大舞神社、天満宮社、多度神社、貴船神社、粟島神社、白髪神社、長官三十社
一口メモ
京都市内にある古社の一つで、式内社ではないが、下御霊神社とともにぜひ参拝したかった神社の一つであった。
上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。
歴史・由緒等
本殿八座の御鎮座年月は詳ならざるも社記によれば、桓武天皇の御宇延暦13年5月崇道天皇の神霊を現今の社地に祀り給ひしを始めとす。其後仁明天皇、清和天皇両朝に至りて井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊を合祀せられ貞観5年5月廿日神泉苑に六座の神座を設け悪疫退散の御霊会を勅修あらせられたるは史上明らかにして、当社御祭神を勅祭し給ひし始めなり。後更に以上六所の荒魂、火雷神と吉備聖霊とを併祭されるに至り、俗に社号八所御霊又は八所御霊大明神と称へ奉り国家守護。皇居御産土神、都民擁護の崇社として斯に長久に鎮座し給へるなり。
桓武天皇、仁明天皇の御勧請に依り奉祀せられし皇居御産土神なるを以て皇室の御崇敬特に篤く。殊に霊元天皇に於かせられては享保8年9月。同14年2月の再度行幸御参詣あらせられ、暦朝御即位大嘗祭の大儀を初めとして天下泰平御祈祷及び当社遷座祭には勅使、院使の御差遣あり。又皇子皇女御降誕の節、御胞衣納めの儀、或は御誕生日等禁中大小の御事ある時には必ず御使を御差遣幣帛料を奉り給ひ、維新後には明治10年2月、明治天皇京都御駐輦中勅使を参向せしめられ同廿五年には皇后陛下御代拝として女官を御差遣同廿6年6月常宮、周宮両内親王殿下御同列御参拝あらせられ、其他皇族の御参拝もしばしばあり、大正、昭和に至りては昭和天皇を始め秩父宮殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下各御成年式の際幣帛を献じ給ひ、或は又昭和9年9月廿一日の颱風被害に対しては宮内省より金壱封の復旧費御下賜あり、且皇太后宮職並びに各宮家(秩父宮、高松宮、久邇宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮)より風害復旧費御寄附あらせられ、近年に於ては昭和27年12月皇太子殿下(現今上陛下)より御成年式並に立太子札御奉告の幣帛を献ぜられ、又昭和43年1月不慮の災禍に因る御本殿の再建復興に際しては特に優渥なる思召を以て御内帑金を御下賜あらせられ、常陸宮、秩父宮、高松宮、三笠宮の四宮家よりも同様、復興の資として金壱封を御寄進あらせられ、又平成14年11月14日には皇太子徳仁親王殿下当社に行啓あり、後陽成天皇御寄進の御牛車並に所蔵古文書を視察、調査された。
以上は皇室の御崇敬事例であるが武門の尊崇も深く室町幕府、織田、豊臣、徳川将軍職の寄進も多く又御神徳を敬仰する一般の崇敬も所謂御霊信仰として全国にあまねき京都府下に於ては分祀三十余社に及び神祇史上特筆さる。
平安遷都にあたり延暦13年(794)桓武天皇さまが平安京の守り神として崇道天皇(早良親王)の御神霊をおまつりされたのが当神社のおこりです。当時天変地異や疫病の流行があいつぎ、それは非運の中に亡くなられた高貴の人々のたたりであるとされ、その人々の神霊をていちょうにおまつりすることによって、わざわいをなくそうという御霊信仰が生まれました。そしてそのおまつりを御霊会といい、京都の夏祭りの多くは御霊会ですが、当神社の祭礼はその発祥であります。以後井上内親王、他戸親王を始めとする十二柱の神霊がまつられ現在に至っていますが幾多の戦乱を経ながらも京都の市中の人々はもとより皇室又時時の施政者からも「産土神」「上御霊さん」と親しまれ敬われてきました。又、現在は上京区・北区にわたる一万三千戸の氏神様としても崇敬されています。
-『京都府神社庁』-
往時俗に御霊の森と云い現今の約二倍の面積あり(現在の境内面積は2612坪)
応仁の乱に際しては東軍の畠山政長御霊の森に拠りて城廓をなせし事史に見え、当時激戦の遺蹟として知らるると共に又以て古木鬱蒼たりし状想見するに足るべし。又境内井戸館の東に芭蕉の句碑あり、即ち元禄3年12月に芭蕉当社に参詣し「年忘レ」の俳句を(八重桜集)
付近住民の氏寺であった上出雲寺は平安時代にはすでに荒廃していたと伝えられますが現在でも境内よりその古瓦が出土します。
祭神は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった御霊信仰が元になっている。当初の御霊会で祭られたのは崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六所御霊であった。追加された二神について、火雷神は菅原道真、吉備聖霊は吉備内親王、または伝承にある井上内親王が産んだ皇子とする説、さらに火雷神は落雷を司る雷精で、吉備聖霊は鬼魅(災事を起こさせる霊力)であると解釈する説もある。相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。
これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。
現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられた。
室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
上下御霊神社は、皇室の産土神(守り神)とされていることから、両神社の社殿は宮中の建物を貰い受ける習慣がある。現在の建物は江戸時代に建造された賢所を下賜されたもの。
式内社 出雲井於神社
旧山城国愛宕郡「出雲」郷の総社である。「井於」とは、賀茂川の畔のことで、出雲郷の鴨川の畔の神社という意味。
延喜式神名帳にある『山城国愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗』に比定される古社だが、論社4社がある。
・比良木社--下鴨神社境内摂社
・御手洗社(井上社-下鴨神社境内末社)--祭神:瀬織津比売命
・上御霊神社(上京区上御霊堅町)--祭神:崇道天皇他7座
・下御霊神社(上京区下御霊前町)--祭神:崇道天皇他7座
建速須佐乃男命を祀る延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を上御霊神社に比定する説もあるが、継続性は不詳であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。また、式内社 出雲井於神社は、鴨川の東に位置する賀茂御祖神社(下鴨神社境内摂社 通称:比良木神社)にあり、当社では、論社の一・比良木社(ヒラキ)を以て出雲井於神社とするが、これも確たる根拠は不詳とされる。
しかし、(下記の地名地誌)鴨川の東岸が蓼倉郷、西岸が出雲郷となったとあり、出雲郷が鴨川西岸であるなら、下鴨神社は高野川に挟まれた東岸にあり蓼倉郷である。御霊神社は鴨川の西辺に位置し出雲郷であるので、両御霊神社説も捨てがたい。
境内・社叢
楼門(西門) 寛政年間(江戸時代中期)に再建されたもの 四脚門(南門) 伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられている
楼門(西門)手水舎 四脚門(南門)手水舎
狛犬
舞殿 絵馬所
宝暦年中(江戸時代中期)御寄進の内裏賢所権殿を絵馬所につくり改めたものです。皆川淇園(みながわきえん)・小林雪山等著名画師の作品がかかげられています。
社殿 八幡宮他境内社
地名・地誌
山城国愛宕(おたぎ)郡出雲郷
下鴨神社の西を流れる賀茂川の西岸に出雲路(いづもじ)という地名が残っている。出雲郷とは、鴨川の西、上賀茂御薗橋辺りからずっと南の出町柳よりさらに南の一帯で、出雲路橋という地名がその名残を伝えています。大宝令(700)以降、山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川の西方より東山までの地域が愛宕郡となり、鴨川の東岸が蓼倉郷、西岸が出雲郷となった。愛宕郡は、古代に隣接する葛野(かどの)郡とともに郡域の一部が平安京となり、現在では京都市北区・左京区・上京区に相当する。
1879年(明治12年)4月10日 京都府に上京区ができる。
1889年(明治22年)4月1日 下京区と合併して京都市が発足。上京区と下京区は共に京都市の行政区となる。
1929年(昭和4年)4月1日 上京区と下京区の2区より左京区、中京区と東山区を分区する
1955年(昭和30年)9月1日 上京区から北区を分区する
地 図
交通アクセス・周辺情報
京都市営地下鉄烏丸線鞍馬口駅下車、徒歩3分
参 考
「京都十六社 朱印めぐり」 http://www.kyoto-16sha.jp/j_hokoku.html
「京都観光NAVI」http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
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