二十二社(中七社)・名神大 石上神宮

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 石上神宮

大和国山邊郡 石上坐布都御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗
別名として石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神などがある。幕末 – 明治期には地元で「いわがみさん」と呼ばれていた。
なお『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。
読み:古 イシノカムノ 現 いそのかみじんぐう

所在地 奈良県天理市布留町384
旧地名 大和国山邊郡

御祭神 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
配祀 布留御魂大神 (ふるのみたま-) 十種神宝に宿る神霊
布都斯魂大神 (ふつしみたま-) 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊
宇麻志麻治命(うましまじのみこと)
五十瓊敷命 (いにしきのみこと)
白河天皇 第72代天皇
市川臣命(いちかわおみのみこと)  天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、当社社家の祖
例祭日
長寿講春季大祭(ちょうじゅこうしゅんきたいさい) 5月3日
月次祭(つきなみさい) 5月15日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座 大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
山辺郡(ヤマヘ):13座(大7座・小6座)
式内社(名神大)

中世社格制度 二十二社(中七社)
近代社格制度 官幣大社
社格制度廃止後(現在) 別表神社

創建     武天皇御即位元年、宮中に奉祀
崇神天皇7年に宮中より現地、石上布留高庭に移る
御神紋 上がり藤
本殿様式 流造 桧皮葺

境内摂社(祭神)

式内社 大和国山邊郡 出雲建雄神社 御祭神 出雲建雄神

天神社・八王子社・天皇神社・七座社・猿田彦神社

文化財

国宝
拝殿 実際の建立年代は鎌倉時代初期とみられる。
摂社出雲建雄神社拝殿
七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)
石上神宮に伝世した上古刀で、両刃の剣の左右に3つずつの小枝を突出させたような特異な形状を示す。金象嵌で記された銘文の中に「泰□四年」の年紀がある。これを西暦369年にあたる「泰和四年」と読む福山敏男説が有力で、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている。

重要文化財(国指定)
楼門 – 文保2年(1318年)建立
鉄盾二枚 – 古墳時代。出土品でなく伝世品
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき) – 「腹巻」は甲冑の一種
禁足地出土品(勾玉・管玉・環頭大刀柄頭 等)

一口メモ

物部氏ゆかりの日本最古の神社。
飛鳥から奈良へと続く日本最古の道といわれる奈良県の南北に走る「山の辺の道」の中間地点に建っている。大和国名神大社の中でも大神神社とともに、最も参拝したかった古社であった。天理大学の東、県道51号線沿いに案内があちこちにある。大きな社号標がある坂を登ると鳥居が見える。手水舎付近に鶏が放し飼いにされている。

歴史・由緒等

石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。

当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。

総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。

平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。

中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。

当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。

禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。

『神社公式サイト』

古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。

社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。

天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。

神階は850年(嘉祥3年)に正三位、859年(貞観元年)に従一位、868年(貞観9年)に正一位。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。

中世以降は布留郷の鎮守となったが、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。

皇室・出雲国造と同じく、世襲の忌火(いんび)職があり、江戸時代まで物部氏の本宗として、代々森家が務めた。現在の宮司も森家出身。
忌火とは、本来神饌を煮炊きする、火鑽(ひきり)によって得た神聖な火の意味。石上神宮の長官職を意味し、皇室の大嘗祭、出雲国造の火継式(神火相続式)に似た、神主の忌火成り神事が行われた。

ーウィキペディアー

石上神宮略記 (「神奈備へようこそ」さん)

御祭神は布都御魂大神で、配祀として布留御魂大神・布都斯魂大神・五十瓊敷命・宇 摩志麻治命・白河天皇・市川臣命を祀る。 神武天皇御即位元年、宮中に奉祀せられ、崇神天皇7年に宮中より現地、石上布留高 庭に移し鎮め祀られる。

御祭神・布都御魂大神は、又の御名を甕布都神、佐士布都神とも申し国平けの神剣、 布都御魂(FUTSU 霊)にます。神代の昔、天孫降臨に際り、経津主、武甕槌の二神と 共に、国土鎮定の大業を成就し給い、更に神武天皇御東征の砌、紀の国熊野において 御遭難の折、天つ神の勅により、再び天降り給い、邪神賊徒を平げ建国の基礎を定め 給えり。神武天皇は御即位の後その功績を称えて、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じ 、永く宮中に奉斎せしめ給うた。
その後第十代崇神天皇7年に物部の祖、伊香色雄命が勅により現地石上布留の高庭に 鎮め祀り石上大神と称えまつったのが当宮の創めである。
爾来、歴代朝廷の御崇敬特に厚く、多くの武器を奉って儀仗に備え、物部連に配して 武臣大伴・佐伯等の諸族をして祭祀にあづからしめ、国家非常の際は天皇親しく行幸 あらせられ、国家鎮定を祈り給うた。
故に名将武門の尊信も深く、天下の諸氏族が挙って霊宝を神庫に托し、皇室の御安泰 と国家の平安を祈り奉った。
古くは神地の周囲、凡そ10里(39粁余)に及び、殿舎神門の鎰匙は常に宮中の官 庫に収められた。
又造営に当っては伊勢の神宮の例にならい、使臣を任ぜられるなど奈良朝以前に神宮 号の尊称を用いられしは、伊勢の神宮と当宮のみにて、御由緒の尊厳を知ることが出 来る。
社号は石上神宮のほか、石上振神宮、石上神社、或は石上社、布留社等とも呼ばれ、 延喜式神名帳には、石上坐布都御魂神社と見え、早くから官幣に預ったが明治4年に は改めて官幣大社に列し、同16年には神宮号が復称された。
古来国家鎮護、民生安穏、百事成就の守護神として悠久に亘る御神徳は恰く国民の尊 信するところである。

配祀神・布留御魂大神は天璽瑞宝十種に籠る霊妙なる御霊威にます。瑞宝十種は、謂 ゆる瀛津鏡一つ、辺津鏡一つ、八握劔一つ、生玉一つ、足玉一つ、死反玉一つ、道反 玉一つ、蛇比礼一つ、蜂比礼一つ、品物比礼一つ、にして神代の昔饒速日命が天降り 給う時、天つ神の詔をもって、「若し痛む処あらば、茲の十宝をして、一二三四五六 七八九十と謂いて、布瑠部由良由良止布瑠部。此く為さば、死人も生き反えらん」と 教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。その御子、宇摩志麻治命は神宝を天皇に奉 り、・霊の神前に蔵めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の御代にFUTSU 霊と 共に石上布留の高庭に鎮り給うた。世に行われる十種祓には、「天下萬物聚類化生大 元乃神宝」とも唱えられ、その畏き霊威を尊んで布留御魂大神と称え奉り、古来病気 平癒、長寿繁栄の守護神として、そのあらたかなる御霊験は、広く一般の信仰をあつ めている。

布都斯魂大神は神代の昔、素盞嗚尊が出雲国簸の川上において、八岐大蛇を斬り給い し、天羽羽斬剣(別名を十握剣、蛇之麁正、蛇韓鋤之剣、天蠅斫剣という)の威霊に ます。この時、八岐大蛇の尾より出でし天叢雲剣は、天照大神に奉り三種の神器の一 つとなり、天羽羽斬剣は当神宮に配祀せられ、布都斯魂大神と称え奉り邪霊退散、開 運招福の御神徳を仰ぎまつる。

宇摩志麻治命は饒速日命の御子、当宮祭主の祖神にます。御父饒速日命は天孫瓊瓊杵 尊の御兄にまし、天祖より天璽瑞宝十種を受け、河内国哮峰に天降り、その後大和の 鳥見の白庭山に移り、長髄彦の妹三炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命を生み給えり。宇摩 志麻治命は御父の薨後、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが 神武天皇の大和御入国に際り天皇を迎えて忠誠を尽し給い、天皇御即位元年には天つ 神の詔に随い、瑞宝を奉り鎮魂の神業をもって聖寿の万歳を祈り奉れり。これが鎮魂 祭の始めである。天皇は命の忠節を喜ばれ武臣の首坐として御即位の威儀に立たしめ 給い、・霊の祭祀をも主らしめ給えり。その建国に当り樹て給いし御功績を称えて配 祀せらる。

五十瓊敷命は第11代垂仁天皇の皇子、御母は日葉酢媛皇后、景行天皇の御兄にます 。垂仁天皇39年、茅淳の菟砥川上宮にまして剣一千口を作り(剣の名を川上部、ま た裸伴という)、当宮に蔵められた。そののち、勅により神庫の神宝を掌られたが、 晩年には妹の大中姫命に譲り給えり。日本書紀に「神の神庫も樹梯の随に」と見えて いるように、命は姫の為に神庫に梯を造てられたが、姫は手弱女の身をもって高き神 庫に登ることを辞み給いて、更に之を物部十千根大連に譲り、ここに物部連が再び当 宮の祭主となって後世に及ぶこととなった。

白河天皇は御三条天皇の第一皇子にまして第72代の皇位を継がせらる。当宮崇敬の 御心持特に厚く、永保元年8月(1081)鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿を遷して 神門を改め拝殿を造営せられた。同年9月には参議源俊明を勅使として遣わし、奉幣 走馬十列を献って祭祀を行なわせらる。寛治6年7月(1093)には親しく行幸あ らせられ祭主以下に官位を授け給えり。毎年10月15日の例祭に行なわれる田村渡 りは、これより始まるという。

市川臣命は第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後裔、米餅搗大使主命の御子にま す。その家は豪族春日臣の一族にて、垂仁天皇の御代すでに当神宮に奉仕せらる。そ の子孫を布留宿禰と称し、祭主物部連に副って永く祭祀に奉仕せられ、当宮社職の祖 として配祀せらる。

石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。

当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。

総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。

平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。

中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。

当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。

禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。

『神社公式サイト』

境内・社叢

   
参道入口の社号標  鳥居脇社号標

  
鳥居                         放し飼いの鶏


人馴れしているのだろう。逃げないで悠然と堂々としているのもさすがだなあと感心した。

ニワトリは石上神宮の一番の人気者です。現在約30羽が参道をはじめ境内の各所にいます。
長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅(とうてんこう:高知県産・天然記念物)、烏骨鶏(うこっけい:天然記念物)、採卵用種のレグホン・ミノルカなどが棲んでいます。

今から40年程前に奉納され、以後時々の奉納や自然繁殖、時にはイタチ、タヌキ、テンなどの小動物による被害を受け、羽数は増減しますが、大きく変ることはありません。
そのため鶏たちは夕方暗くなる前に低い木々から順々に高い枝に飛び上がり、そこで一夜を過ごしています。
烏骨鶏やレグホンは高く飛び上がることが出来ず、専用の鶏舎にて夜を過ごします。『神社公式サイト』

  

拝 殿・楼門(国宝)           楼門

  

拝殿(拝殿格子からかろうじて)      拝殿・本殿屋根 (境内社天神社から)

本殿は禁足地であり一般に立ち入ることはできない。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきた。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営された。

  
楼門の向いにある式内 出雲建雄神社    拝殿(国宝) 出雲建雄神社本殿

  

摂社 天神社


七座社

地名・地誌

ホームページ 『神社公式サイト』

地 図

奈良県天理市布留町384

交通アクセス・周辺情報

参 考

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