式内 和爾下神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 和爾下神社

通称:上治道(かみはるみち)天皇社
式内社 大和国添上郡 和尓下神社二座
境内式内社 大和国添上郡 高橋神社 (若宮社)
読み: 古 ワニシモ、現 わにした
所在地 奈良県天理市櫟本(いちのもと)町櫟本字宮山2490
旧地名 大和国添上郡
御祭神
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
稻田姫命(いなだひめのみこと)
例祭日
7月14日 祇園祭
10月14日 秋祭り

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座
286座 大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
添上郡(そえがみ):37座(大9座・小28座)

近代社格制度 旧村社
創建
本殿様式   三間社切妻造、向拝一間、檜皮葺

境内摂末社(祭神)

高橋神社 若宮社

文化財

本殿 重要文化財(国指定)

一口メモ

西名阪自動車道天理I.C.の南、国道169号線に横に長い社叢の杜が目に入ると国道横に大鳥居があり、参道が東に延びる。それもそのはずで前方後円墳に鎮座する神社であった。

歴史・由緒等

式内社・和爾下神社 比定社
通称、上治道(かみはるみち)天皇社 奈良県天理市櫟本町櫟本字宮山2490
下治道(しもはるみち)天皇社 奈良県大和郡山市横田町字治道23(上治道天皇社の西2km)

和爾下神社は古墳(古墳時代前期)の上に所在。この地域では古い前方後円墳で、鬱蒼とした森に包まれた、静かな場所です。

「延喜式」にみえる古い神社です。もとは「和爾部」と「櫟井臣」の祖神とされる孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あまたちしひこくにのおしひと)と日本(やまと)帯彦国押人命が祀られていたそうですが、現在は本社大己貴命(一名大国主命)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、稲田姫命が祀られています。

古墳が治道山と呼ばれていたところから、治道社(春道社)や牛頭天王社、さらに西隣に建てられた柿本寺との関係で柿本上宮とも呼ばれていました。しかし、明治初年に延喜式内の和爾下神社に当るとの考証から、和爾下神社と定められ、今日に至っています。

ー『天理市観光協会』ーhttp://kanko-tenri.jp/

神護景雲三年(西暦769年)東大寺領の櫟左へ水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直ぐに作られたので、この森を治直の森といい、宮を治道社といった。
上代の古墳の上に祀られた神社で、櫟本の地方にいた一族の氏神であったが、今は櫟本町の鎮守の神社である。
この治道社の(春道社とも書く)祭神は、素盞鳴尊の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で、柿本上社ともいわれた。
明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに当ると考証されて社名を、和爾下神社と定めた。
今の社殿は、三間社流れ造り、桧皮葺一間向拝付で、桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。祭神は、素盞鳴命、大己貴命、稲田媛命。

「境内案内板」

境内・社叢

  
一の鳥居                     一の鳥居 境内から

  
参道                       二の鳥居


参道石段(鎮守の杜では薄暗く露出不足でブレぎみなのだけど気づかずこれしかないので掲載)


社頭掲示板

   
拝殿

   
石段上狛犬

  
拝殿狛犬ならぬ牛像(牛が守っているのは他の神社でも見かけたことがある)

  
本殿                       本殿左 摂社若宮社

  
参道境内社 琴平神社・熊野神社          天照皇大神宮

  
境内社 厳島神社                 十二神社

  
社頭左境内社                   社頭右境内社 豊川稲荷社

参道右手奥境内社

地名・地誌

櫟本(いちのもと)

櫟本地域は天理市北部にあたる。中部はJR天理駅周辺で、南部は桜井市に隣接する柳本地域に大きく別れる。大和王権の軍事を司った「物部」氏が居住していた地域で、この地に居を構え、石上(いそのかみ)神宮の祭祀を司るようになります。またJR天理駅と柳本駅の間にある長柄駅の柳本地域では大倭氏が代々「大和神社」の神主を世襲しました。この大和神社は創建が古く、崇神天皇即位6年に宮中内から移され創祀された、との記録が残っています。

日本最古の道といわれる「山の辺の道」は、桜井市の金屋あたりから大神(おおみわ)神社・石上神宮を通り、奈良へ抜ける道でした。この道沿いには、万葉集に詠まれた場所がたくさんあります。当時、この道は主要な道であり、多くの人が喜怒哀楽を胸に行き来したものと想像されます。

石上神宮からこの道を北へ進むと櫟本へ入ります。ここには7人の天皇に9人の后妃を出したとされる豪族「ワニ(和爾・和珥)」氏が居住していました。現在の和爾の集落が居住域、南に広がる東大寺山古墳群が一族の墓と考えられています。 この古墳群には、後漢末の年号をもつ鉄刀が出土した東大寺山古墳や赤土山古墳、和爾下神社古墳などがあります。

本市の前身は明治21年の「町村制」により誕生した7村が基盤です。その内、明治26年には、山辺村、櫟本村、柳本村の3村が町制を敷き(山辺村は丹波市町と改称)、地域の中核となります。
その後、昭和29年に6ヶ町村が合併して「天理市」が誕生しました。
市の名称は、天保9年に三島町で始まった天理教に由来しますが、参拝者の増加にともない市街地も拡大していき、今日の景観となっています。

『天理市観光協会』 http://kanko-tenri.jp/

地 図

奈良県天理市櫟本町櫟本2490

交通アクセス・周辺情報

JR櫟本駅から東

参 考

『天理市観光協会』、他

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