式内 八咫烏神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

現社 号 八咫烏神社
読み:やたからすじんじゃ
通俗:オトゴロス社
延喜式神名帳 式内社 大和国宇陀郡 八咫烏神社 (鍬靫)
読み:ヤタカラス
所在地 奈良県宇陀市榛原(はいばら)高塚字八咫烏42
旧地名 大和国宇陀郡伊那佐村
御祭神 建角身命 (たけつのみ のみこと=八咫烏)
神武天皇東征神話の中で先導神としてあらわれた八咫烏は、この神の化身。『古事記」では高木大神の、『日本書紀』では天照大神の使神。
祭礼 11月3日 例祭
神紋

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座 大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
宇陀郡(ウタ):17座(大1座・小16座)

近代社格制度 旧県社

創建     慶雲2年(705年)
本殿様式   春日造

境内摂末社(祭神) ナシ

一口メモ

談山神社からせっかくなので未踏の地宇陀へ。奈良県は人口のの9割以上が北西部の奈良盆地に集中しており、東部の宇陀や南部の吉野は県域の半分以上を占めるが山地で過疎地域となっている。したがって、奈良盆地内のように集中して神社めぐりをするのとは勝手が違い移動に時間が掛かる。しかし、式内社としては吉野の丹生川上神社と宇陀の宇太水分神社など、有名な大社が多いので諦め入れない場所である。談山神社から降りた県道交差点をまっすぐに長いトンネルを抜けると宇陀市大宇陀に出る。日没まで主な式内社をどれだけ回れるかだ。

歴史・由緒等

日本サッカー協会(JFA)が「ゴールに導く神の使い」として、八咫烏をシンボルにしたことでにわかに注目されるようになった神社。
「日本サッカーの生みの親」とされてきた中村覚之助は、那智勝浦町の出身で、八咫烏は熊野三山の神鳥「八咫烏」でもあります。日本サッカー協会は中村覚之助が日本サッカー史で果たした役割を顕彰する意味で、その出身地の熊野三山の神鳥「八咫烏」をシンボルマークとして採用したという。

八咫烏の伝承はもともと大和の宇陀地域で語られていた?

神武天皇が熊野から大和へと入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏です。八咫烏、中国では陽鳥(ようちょう、日の神・太陽のシンボル)と考えられています。八咫烏の伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていましたが、8世紀以降、山城の賀茂県主(かものあがたぬし)が有力となってからは、賀茂氏の祖である武角身命(たけつのみののみこと、建角身命)が八咫烏といわれるようになりました。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、慶雲2年(705年)に八咫烏の社を宇陀郡に置かれたことが記されています。飛鳥時代末の慶雲(けいうん)2年(705)にこの宇陀の地に祀られたとあり、その創祀はとても古いものです。現在、宇陀市榛原高塚には、八咫烏神社があります。
また、八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークにもなっています。昭和6年(1931)に決められたものですが、中国の陽鳥としての考え方や神武天皇を大和へ導き、勝利に貢献したことから、シンボルとなったのでしょう。

しかし、歴史学者の和田萃氏は、山城鴨氏が葛城鴨氏より有力になり、8世紀に入って山背国の賀茂祭が盛んになった頃にこのカモタケツヌミの遊幸伝承が成立したものと推察しておられる。さらに、和田氏は八咫烏伝承はもともと大和の宇陀地方で語られていたと見ておられる。その根拠として、神武伝承では八咫烏は神武の一行を熊野から宇陀まで先導したが、それ以後の活躍が記されていないこと、慶雲2年(705)9月2日に、八咫烏神社が大倭国宇陀郡に創始されたと『続日本紀』に記されていること、などを挙げておられる。

 当社は延喜式神名帳記載の式内社で、我が国の草創期の正史のひとつである『續日本紀』に文武天皇の御代、「『慶雲二年(西暦七〇五)九月丙戌』、『大倭国宇太郡』に『八咫烏社』を祭る」と記述が見え、これが当社の創祀となっています。

御祭神は建角身命(たけつぬみのみこと)です。建角身命とは伝承によると、神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、天皇の勝利に貢献した「八咫烏」の化身と伝えられています。

このような御由緒から古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰により社は大いに栄えたと伝えられています。
しかし、南朝の衰退と度重なる戦禍に見舞われて以後、江戸時代中期まで廃絶寸前の状態となり、社の衰微にともなって、いつしか「やたがらす」が訛って「をとごろす」という俗称が残ったほどだと伝えられています。

やがて、江戸時代の文政年間になって、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の神官の目にとまり、その働きかけと在郷有志の協力により再興されました。本殿が現在のような春日造に作り替えられましたのもこの頃です。
(なお旧本殿の石造小祠は今も本殿の横に現存しています)
それ以降、例大祭の折には下鴨神社から奉幣使が送られ、祭典が執り行われてきましたが、奉幣使をともなう大祭は当時わずか九戸ばかりの貧村であった当地の氏子には負担があまりにも大きかったため、明治初年にそれも中止を余儀なくされました。
その後、大正三年の神社合祀令により近隣の鎮守の神様が当地でまつられることになったため、にわかに再興しました。
また、昭和の時代になって紀元二六〇〇年を記念し、県社に昇進するにともなって神域の拡張と整備が行われました。以降、現在へと至ります。

『神社公式サイト』 http://www.yatagarasujinja.net/

境内・社叢

  
一ノ鳥居(参道入口)            二ノ鳥居(境内入口)


社頭掲示板

  
手水舎                  拝殿

   
狛犬

  
玉垣                   本殿


本殿

  
2002年(日韓ワールドカップ大会の年)に寄贈された日本サッカー協会のシンボルマークをモチーフにしたモニュメント。

地名・地誌

榛原(はいばら)・榛原町(はいばらちょう)

八咫烏神社公式サイトによると、
この地は古くから開けており、かつては近畿と東海地方を結ぶ交通の要衝だった。
榛原の街なかには「伊勢街道」が通っており、「札の辻」という分岐から伊勢本街道と伊勢表街道(あを越え)という二つのルートがそれぞれに伊勢へとのびている。
伊勢本街道は、峠越えを含む険しい最短ルート(現国道369)。伊勢表街道は、比較的平坦な回り道(現国道165)。(中略)庶民の足は圧倒的に伊勢本街道が支持されたようです。しかし現在この道を伊勢まで徒歩で旅する人は稀といえます。
とはいうものの、鉄道や国道が伊勢街道沿線に造られていることを考えると、榛原というところはお伊勢参りだけではなく、今も昔も奈良盆地の玄関口のような場所であると言うことができそうです。

1954年(昭和29年)7月1日 伊那佐村および磯城郡桜井町の一部(笠間・安田)を編入。
1955年(昭和30年)4月1日 内牧村を編入。
2006年(平成18年)1月1日 大宇陀町・菟田野町・室生村と合併して宇陀市が発足。同日榛原町廃止。

地 図

交通アクセス・周辺情報

ホームページ 『神社公式サイト』

参 考

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