式内 石切劔箭命神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社 号 石切劔箭命神社
読み:いしきりつるぎやじんじゃ
総称:石切大明神 通称:石切さん
石切剣箭命神社(本社、または下之社)
石切剣箭命神社 (上之社)大阪府東大阪市岩切町2丁目 昭和47年3月15日跡地に再建

延喜式神名帳 式内社 河内国河内郡 石切劔箭命神社二座
読み:古 イハキリノ、現 いしきりつるぎや

所在地 大阪府東大阪市東石切町1丁目1-1
旧地名 河内国河内郡
御祭神
饒速日尊(にぎはやひのみこと)、可美真手命(うましまじのみこと)
例祭日 10月21日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
河内国:113座 大23座(並月次新甞。就中八座預相甞。)小90座(並官幣)
河内郡[カハチ(カムチ)]:十座 大四座 小六座
式内社
近代社格制度  旧村社

創建      神武天皇紀元2年
本殿様式

境内摂末社(祭神)

水神社
亀の池が有名。祭神:罔象女神(みずはのめのかみ)・天水分神(あめのみくまりのかみ)
五社明神社 祭神:恵比須大神、大国主大神、住吉大神、稲荷大神、八幡大神
神武社 祭神:神武天皇
穂積神霊社
乾明神社 祭神:應壅乾幸護彦(おうよういぬいこうごのみこと)ー應壅乾幸護大明神とされる。
穂積地蔵尊 神宮寺であった法通寺の地蔵尊を祀ったもの

一口メモ

私の住む近くにある豊岡市日高町久田谷で、粉々に破壊された痕跡があるおびただしい銅鐸破片が発見されたことは知っていたが、デアゴスティーニの「日本の歴史」を定期購読して、その第一刊の冒頭に久田谷銅鐸と物部氏が取り上げられていたことに衝撃を受けたのが神社に深い関心をもつきっかけだった。

久田谷銅鐸のこのような例は全国でも珍しいもので、数年前、兵庫県立考古博物館館長および香芝市二上山博物館館長を務めておられる石野博信先生の銅鐸破壊実験に参加した。いかにきれいに粉砕するのが今の知識を持ってしても難しいことなのかを教えていただいた。神武東征と饒速日命(にぎはやひのみこと)ともうひとつの日本(ひのもと)、日下(くさか)とは河内の辺であるという。久田谷銅鐸発見場所の対岸にも岩舩磐社(豊岡市日高町道場)があるのだ。
なぜ、銅鐸は破壊されたのか?河内に最初あったのは物部氏の国は生駒山地。神武東征はそこから大和橿原宮で移りヤマト王権が成立したのか?日本その謎を知りたいので、河内孔舎衛坂(くさえのさか)の地(今の東大阪市日下)と交野の磐船神社をいつか尋ねたかったのである。時間があれば上の社にも行きたかったが、今回は見送る。

大阪では石切さんとして親しまれている有名な神社。正面鳥居右には石切商店街という土産物店や食事店が狭い参道に軒を連ねて風情が残る。

歴史・由緒等

可美真手命は、物部氏の祖とされる人物で、饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶り生れた子。『日本書紀』では「可美真手命(うましまでのみこと)」と『古事記』では「宇摩志麻遅命」、『先代旧事本紀』では「味間見命(うましまみのみこと)」と表記する。

当社は、我が大和民族が皇祖と仰ぎ奉る天照大神(あまてらすおおかみ)の御孫にあたられる瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御兄、饒速日尊とその御子、可美真手命(うましまでのみこと)の二柱をお祀りしています。
御祭神は日本国の発祥にあたる大和建国に御功績がありました。尊は神武天皇の御東征に先立ち、天照大神から十種(とぐさ)の神宝(かんだから)をさずかり、大和建国の任務を受けて天磐船(あめのいわふね)に乗り、哮ヶ峰(たけるがみね)(現在の生駒山)に天降りになりました。そのころ、大和地方にはすでに勢力を拡大している先住の人々がおりました。尊はその一族の家長である長髄彦(ながすねひこ)の妹、登美夜毘売(とみやひめ)(三炊屋媛)(みかしやひめ)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その後年月を経て神武天皇の東征に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢(あめのはばや)を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。
また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。

本社の御鎮座につきましては、今からおよそ七百年前の足利時代の末に、社殿及び宝庫が兵火にかかり焼失したため明瞭ではありませんが、『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう)の中には、既に当社の社名が記載されており、また『三代実録』(さんだいじつろく)には貞観七年九月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されております。

また、天文五年に当社社家である木積氏の祖先藤原行春大人(ふじわらのゆきはるうし)の記した『遺書伝来記』(いしょでんらいき)によると、神武天皇紀元二年、宮山に「上之社」(かみのしゃ)が建てられ、崇神天皇の御代に「下之社(しものしゃ)(本社)」に可美真手命が祀られたとあります。

本社の祭祀は代々木積氏が司ってきましたが、「木積」という姓は本来「穂積」といい、饒速日尊の第七代目に当たる伊香色雄命(いかがしこをのみこと)が、この穂積姓を初めて名のられ、それ以来物部氏の一統として一氏族をつくり、大和を中心として八方に部族を増大させてゆきました。その御祖先である饒速日尊、可美真手命を御祭神と仰ぎ、ここ「石切」の地に御霊代を奉祀申し上げ、本社の御鎮座となったのであります。木積家は代々神職として朝夕、御皇室の安泰、国家の興隆、崇敬者の無事繁栄を御祈祷し、御加護をお願いして参りました。

神話 『鳥見の里と饒速日尊の天降り』

この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術はないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに優れていました。また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。
さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の饒速日尊に大和の建国を命じ、『十種の瑞宝(かんだから)』を授けていました。

『十種の瑞宝』は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。
饒速日尊は『フツノミタマの劔』を持ち、日の御子の証である『天羽々矢』も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。
船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に『フツノミタマの劔』を授け、船団の半分をあずけます。
そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。こうして饒速日尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す哮ヶ峰(生駒山)に着きました。

切劔箭神社の祭祀は、代々、木積(こづみ)氏が務めてまいりました。この木積の姓は、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の、最有力氏族のひとつ「穂積(ほづみ)」から転じたものです。そして物部氏は、石切劔箭神社の御祭神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)の子孫にあたります。
『神社公式サイト』

境内・社叢

  
絵馬殿                  参道

  

鳥居                    社号標

  
手水舎                   拝殿

「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名とのこと。参拝の朝もお百度参りをされていました。


(本殿奥)瑞穂殿

  
(本殿左手)神楽殿            (本殿右手)瑞穂神霊社

  
(正面鳥居左手)水神社           ご神木

地名・地誌

地 図

大阪府東大阪市東石切町1丁目1-1

交通アクセス・周辺情報

本社
近鉄けいはんな線 新石切駅から徒歩7分。
近鉄奈良線 石切駅から徒歩15分。
上ノ宮
近鉄奈良線 石切駅から徒歩7分。
本社から東へ約1km、近鉄奈良線のガードをくぐって坂道を登る。


阪神高速東大阪線「水走」出口より直進し、三つ目の信号を左折すると神社駐車場です。
※駐車場台数には限りがございますので、参拝には出来るだけ公共機関をご利用頂きますよう、皆様のご協力をお願い致します『神社公式サイト』

参 考


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