紀氏神社(名神大 平群坐紀氏神社)

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 紀氏神社

式内社 大和国平群郡 平群坐紀氏神社 (名神大 月次/新嘗)
読み:古 キノウチカミ、現 へぐりにますきのうじ
俗称:辻の宮、椿の宮
所在地 奈良県生駒郡平群町上庄字辻の宮
旧地名 大和国平群郡
御祭神 天照大神、天児屋根命、都久宿祢、八幡大菩薩
例祭日 例祭 10月第1日曜日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座 大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
平群郡[ヘグリ]:20座 大12座 小8座
式内社(名神大)

近代社格制度  旧村社

創建      不詳
本殿様式    春日造

境内摂末社(祭神)

春日神社

一口メモ

紀氏は、波多氏・巨勢氏・蘇我氏・平群氏・葛城氏などと共に、大和で大きな勢力を持っていた。国道168号線の旧道から近鉄生駒線の踏切を渡る。小高い丘にこんもりと社叢の杜が見える。

歴史・由緒等

延喜式神名帳に平群坐紀氏神社と記載のある式内大社で、近世には辻の宮、椿の宮とも呼ばれていた。祭神は平群木菟宿根で、紀船守(紀氏もしくは平群氏の末裔)がその祖、平群木菟を祀っている。中世には春日神社にもなっていた。本殿は春日造りで朱塗り、銅板葺き。延宝七年(1679)の石灯籠が最も古く、境内春日神社の鳥居は元禄15年(1702)の寄進。
上庄・椣原・西向の3大字の氏神で、境内には3つの座小屋があり、その座小屋は拝殿を囲むように配され、北が上庄大字、南が西向大字、拝殿と相対する西側は椣原大字の座小屋である。
南北の座小屋は土間であるが、中世の荘園平野殿庄の関係で役人を招待した椣原の座小屋だけは床板が張られている。
社地が椿井にあったとの記録もあり、そこから現在地に移された可能性もある。

「社頭掲示板」

当社は元々、現在地より2kmほど南の「椿井」にあったものと見られている。

境内・社叢


社頭案内板

  
鳥居                        手水舎


割拝殿

   
狛犬

  
本殿

  
境内社 春日神社             磐座が祀られている神域のようだが不明

地名・地誌

平群(へぐり)

奈良県西北部。古代の大和国平群郡平群郷。古代豪族・平群氏の本拠地であり、平群神社、平群坐紀氏神社、平群石床神社などの延喜式内社が鎮座するのをはじめ、古墳64基が散在する。
信貴山縁起絵巻で有名な信貴山朝護孫子寺も町域に属する。
中世後期には、しばしば大和国を動かす中心地となる。1536年(天文5年)に木沢長政が信貴山城を築城、後に大和に入った松永久秀もこれを補修して居城とし、大和攻略の拠点とした。久秀の滅亡後は城は廃城とされている。

沿革

1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、平群郡西向村・櫟原村・椣原村・上庄村・梨本村・吉新村・三里村・白石畑村・平等寺村・下垣内村・鳴川村・福貴村・福貴畑村・久安寺村・信貴畑村・椹原村・越木塚村・若井村・西宮村・椿井村の区域をもって明治村(めいじむら)が発足。
1896年(明治29年)9月1日 – 平群郡明治村が改称して平群村(へぐりむら)となる。
1897年(明治30年)4月1日 – 平群郡平群村の所属郡が生駒郡に変更。
1970年(昭和45年)12月1日 – 町章を制定。
1971年(昭和46年)2月1日 – 平群村が町制施行して平群町となる。

平群氏(へぐりうじ/し)

「平群」を氏とする氏族。
武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣(おみ)、後に朝臣。

『日本書紀』の所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになった。葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。
これ以後、平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した。

考古学的な見地からは、平群氏の奥津城とされる平群谷古墳群(平群町に所在)の変遷を考えると、同氏の台頭は6世紀中期以前には遡れないという。このことから、平群氏を6世紀後半の神手以降の新興在地豪族と見る説が有力である。従って、真鳥が大臣に就任して専権を振るったという『書紀』の叙述は史実として認められず、平群氏が自氏と同じく武内宿禰の後裔氏族である蘇我氏への対抗意識から故意に作り上げたのだと説明されている。天武天皇10年(681年)の帝紀・上古諸事の記定事業に平群子首(こびと)が参画していること、持統天皇5年(691年)に「墓記(纂記)」上進を命じられた諸氏族に平群氏が含まれることは、同氏伝承の成立とも関わって留意されよう。

(ウィキペディア)

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考


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