高津宮(高津神社)・名神大 比売許曽神社論社
Contents
概 要
社号 高津宮
読み:こうづのみや
摂社 式内(名神大)摂津国東生郡 比売許曽神社(下照比売社)
所在地 大阪市中央区高津1丁目1番29号
旧地名 摂津国東生郡(東成郡)
御祭神
主祭神(本座) 仁徳天皇
右座 履中天皇(仁徳天皇の長子)・葦姫皇后
左座 神功皇后(仁徳天皇の祖母)・応神天皇(〃 の父)・仲哀天皇(〃 の祖父)
例祭日
社格等
式外社
近代社格制度
社格制度廃止後
名神大 比売許曽神社(論社)
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
摂津国:式内社75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
東生郡[ヒムカシナリ]:4座(大3座・小1座)
式内社(名神大)
創建
本殿様式
境内摂末社(祭神)
摂社
比売古曽神社
末社
高倉稲荷神社・安井稲荷神社・白菊神社・専念神社・常高神社
一口メモ
20歳の頃、城南寺町や清水谷に住んでいたので、この当たりはすぐ近くだったが、その頃はもちろん神社に関心もなく、36年も経て改めてもったいないことをしていたと思った。でも大きなマンションが増えたが静かな佇まいは往時と変わらず懐かしかった。
歴史・由緒等
『神社公式サイト』http://www.kouzu.or.jp/
当宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であります。
仁徳天皇が高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られて人民の窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済されました御仁政はあまねく国民の敬慕する処であります。
その御仁政を慕い平安期の初期清和天皇の貞観八年(866年)勅命(天皇の命令)によって旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いてお祭りしたのを創始といたします。以後世々皇室を始め時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて浪速津の守護神と仰がれ御神威輝き渡ったのでありますが、その後700年を経た正親町天皇の天正十一年(1583年)豊臣秀吉が大阪城の築城に際し比売古曽社の現在地に御遷座(神社の御神体が移ること)になって今日に及んでおります。
仁徳天皇の徳政を敬い大正十年に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさねきて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市・・・」と歌われています。
昭和二十年三月の第二次大戦の戦火を浴び神輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失しました。しかし戦後氏子を始め崇敬の厚い奉賛により昭和三十六年十月社殿以下ことごとく復興完成を見ました。
-『神社公式サイト』より-
高津宮(神社)は清和天皇の時代に高津宮跡に建てられたと伝えられていますが、元々は大阪城のあたりにあり、正親町天皇の時代に今の場所に移されたそうです。人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
社殿が再建された昭和30年代から、当時の宮司らの手によって境内や隣接する高津公園にソメイヨシノなど約100本のサクラが植えられた。高津宮では毎年3月下旬から4月上旬にかけては「桜まつり」が催されて多くの花見客で賑わっている。
境内・社叢
表参道
手水舎 拝殿
末社 高倉稲荷神社 摂社 比売古曽神社
仁徳天皇「民のかまど」の碑 五代目桂文枝之碑
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
最寄駅
谷町九丁目駅
大阪市営地下鉄谷町線・千日前線
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