式内 山狹神社(上山佐)
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概 要
社 号 式内 山狹神社
式内社 出雲国意宇郡 山狹神社(論社)
読み:古 ヤマサ、現 やまさき
『出雲国風土記』「夜麻佐社」
江戸時代「二所大明神」
所在地 島根県安来市広瀬町上山佐598
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)、久志美氣濃命(くしみきぬのみこと)
配祀 誉田別神 足仲比古命 息長足姫命
例祭日 5月5日 例大祭
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式 大社造鋼板葺
境内摂末社(祭神)
天神社・高清神社・森口年神社・中口年神社
六呂原荒神社・栄谷荒神社・八城荒神社・高木加納組荒神社
高木板橋組荒神社・高木平井組荒神社・高木第一地区荒神社・湯谷上荒神社
湯谷下荒神社・大成荒神社・中口上荒神社・中口中荒神社・中口下荒神社
志引荒神社・大畑荒神社・二軒堂荒神社・常願寺荒神社・中口竜権社
一口メモ
式内山狹神社は下山佐とこの上山佐地区に二社ある。下山佐の式内 山狹神社から飯梨川支流山佐川沿いの県道45号線を4.7km、12分。
昭和30年まで山佐村で、
歴史・由緒等
風土記の「夜麻佐社」に相当する。
風土記の時代にはこの夜麻佐地区に二社あつたものが、式の時代になると一方が他方に合祀され一社になった。近世になると、この山狭地区が上山佐と下山佐とに分れ、上山佐には「二所大明神」、下山佐には「熊野神社」(通称熊野権現)ができた。この双方が式内社を争った。
一方、式内山狭神社は上山佐の二所大明神で、同社坐久志美気濃神社はその後また分れて下山佐の熊野神社となったという説もある。
明治以後、上山佐の山狭神社は式にいう山狭神社の、下山佐の山狭神社は同社坐久志美気濃神社の後身という形となった。
古くは天狗山の元宮成(げんぐうなり)にあったが、のち山麓の湯谷・宮ケ谷に遷し、そこで水難に遇ったため里近い宮ケ市に遷し、再度水難に遇つて門畑地内の中河原に遷し、さらに水難に遇うことしばしばであったため、ついに現在の高地に遷したと伝えている。
-『延喜式神社の調査』さん-
熊野大社公式ページに、熊野大社の御祭神が伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなこ) 加夫呂伎熊野大神(かぶろぎくまのおおかみ) 櫛御気野命(くしみけぬのみこと)。伊邪那伎日真名子はイザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛がられる御子の意で、「加夫呂伎」とは神聖なる祖なる神様という意。「熊野大神櫛御気野命」とは、この熊野に坐します尊い神の櫛御気野命という意であるとする。
この御神名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別神名である。
熊野大社は意宇川の500m上流の熊野山(天狗山)にスサノオノミコトの御霊が降りてきたとされる「磐座」「元斎宮」がある。中世には旧跡地の「上の宮」の位置に熊野大社はあったとされ、明治に現在の位置になったといわれている。
御笠山の頂上付近からは、熊野大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けられている。
久志美氣濃命(くしみきぬのみこと)は熊野大社と同じでありスサノオの別名なのだ。背後の天狗山は熊野山ともいい、反対の西側には現在の出雲国一宮熊野大社。東側にあるのが山狭神社で、その由緒には、古くは天狗山の元宮成に鎮座していたとある。つまり同じ熊野神社の御祭神を祀っている。神社の変遷からみれば、ご神体山や磐座に祠が建てられるようになり、やがて参拝が便利なように里宮が建てられる。出雲国風土記では 「夜麻佐社」、「夜麻佐社」と、意字郡の社名列記の條の第二位と第十二位とに別々に記されている。この両社は、その頃にはすでに二社あったようだ。そして時代は遷り、広瀬富田が出雲国守尼子氏の本拠城となると、より便利な下山佐が立派なのは、時の尼子氏が社殿を寄進したのだろうと考えるのが自然だろう。洪水でもない限り、下から上へ神社が遷る例はない。
境内・社叢
社叢 鳥居
社号標
手水舎 随神門
境内の伝統がありそうな狛犬
拝殿
拝殿扁額 本殿
本殿右境内社 元宮神社
史料によるとたくさんの周辺地区・組の神社が記されているが、境内社は元宮神社のみなので元宮神社の合祀されたものだろうと思う。
本殿奥に鳥居があるが小さな祠があるだけ。20年遷宮したとあるので。
地名・地誌
1955年(昭和30年)1月10日 – 広瀬町・山佐村・比田村が安来市の一部(安来市石原町)が新設合併し、新・広瀬町が発足。
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