式内 都辨志呂神社
Contents
概 要
社号式内社 出雲国意宇郡 都辨志呂神社
『出雲国風土記』「都俾志呂社」
江戸時代「都弁志呂大明神」
読み:古 ツヘシロ、現 つべしろ
所在地 島根県安来市広瀬町広瀬鍛治町1415
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
素盞鳴尊(すさのおのみこと) 配祀 岐戸大神(ふなどのおおかみ)
合祀 大山祇神 金山彦神
例祭日 10月9日 例祭
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
近代社格制度
創建
本殿様式 大社造銅板葺
境内摂末社(祭神)
稲荷神社・塩釜神社・天満宮・荒神社
一口メモ
式内神社や神社が多い谷あいで、前回時間がなくてリベンジ。広瀬町は安来市の平野部から中海に注ぐ飯梨川の上流域で飯梨川流域は式内社・古社が多く点在している。都辨志呂神社はその広瀬町中心部にあり、県道45号線を安来市立病院の横を西へ入り650m。
歴史・由緒等
風土記の「都俾志呂社」に相当する。
社名は一貫し、中・近世にも変ることはなかつた。
もともといまの広瀬町の鍛冶町後丁の地に鎮座したが、火災・水害に遇い、寛文8年(1668)伊吹山の麓に奉遷し、さらに延宝五年(1677)現在地に遷した。
「社伝によれば、上古素盞鳴尊が岩坂の方から駒返り峠を越えて飯梨川筋へ出られ、流域を巡行せられし際、現在の廣瀬町中町字札場のあたりで休息し、安來方面に向かつて出発せられし際、その腰掛け給ひしところに御杖を忘れおき給ひしを、郷人、ここは尊の御杖なれば畏しとて、その御杖と腰掛け給ひし石とを霊代として、その東方約一町の地、すなはち現在の鍛冶町後丁の地に社殿を建て、素盞鳴尊を主神とし、これにそのとき道案内をし給ひし岐神を配してお祀りしたのが、當社の起源であるとなつてゐる。」『式内社調査報告』
-『延喜式神社の調査』さん-
岐戸大神(ふなどのおおかみ)
「大辞泉」によると、【岐神】(ふなどのかみ)
道の分岐点などに祭られる神。邪霊の侵入を防ぎ、旅人を守護すると信じられた。道祖神。塞(さえ)の神。久那斗(くなど)の神。巷(ちまた)の神。
(以下、ウィキペディア)
岐(ちまた、巷とも書く)または辻(つじ)とは、道路が分岐・交叉する場所のことである。このような場所は、人だけでなく神も往来する場所と考えられた。神の中には悪神・悪霊もおり、これらの侵入を防ぐために祀られたのが岐の神である。このことから塞の神(さえのかみ)とも呼ばれる。
神話の中では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。
『古事記』でも、上述のイザナギの禊の場面で、最初に投げた杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が化生している。
後に、中国から伝来した道路の神である道祖神と習合した。そこから、道祖神もサルタヒコと同一視されるようになった。また、仏教の地蔵菩薩とも同一視された。
境内・社叢
鳥居 社号標
随神門
狛犬・手水
拝殿 拝殿扁額
本殿
境内右手境内社 稲荷神社
本殿上境内社 山中社・天満宮 塩釜社
本殿奥に参道らしき石段があるので登ってみたが、境内社2社のさらに上方にも整地された小さな穴のあいた場所。
境内左手 樹齢200年の椎
地名・地誌
広瀬町
広瀬町は、かつて島根県能義郡にあった町で、2004年10月1日、安来市・能義郡伯太町と新設合併し、新市制による安来市となった。
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