式内 久多美神社(島根県松江市東忌部町)
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概 要
社号 式内社 出雲国意宇郡 久多彌神社
読み:古 クタミ 現 くたみ
『出雲国風土記』 「久多美社」
江戸時代 「大宮神社」
所在地 島根県松江市東忌部町3000-17-2
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
大穴牟遅神(おおなむぢ のかみ)
事代主神(ことしろぬし のかみ) 味耜高彦根神(あぢすきたかひこね のかみ) 天御梶姫神(あめのみかぢひめ のかみ)(アヂスキの后)
祭礼 10月30日 例祭
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
式内社
近代社格制度 旧村社
創建 不詳、大正12年3月29日旧社地に遷
本殿様式 大社造
境内摂末社(祭神)
一口メモ
松江市の野白神社から宍道湖南岸の玉造、斐川町を通り出雲市へ通じる国道9号線(山陰道)とは別に、雲南市大東町を通り雲南市木次町へ通じる乃白バイパスから県道24号線沿いは、地図を見ると式内社が数珠つなぎに点在する。なるほど県道には【ご縁をつなぐ神仏の通ひ路】という標識がある。前からなんとなく寺社めぐりに適しているルートだと思っていたが、どういう意図か気になっていた。中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会(平成17 年6 月発足)内に設置した(仮)日本風景街道委員会が、平成19 年9 月からは、名称を「レーク街道推進会議」と改め、ご縁をつなぐ神仏の通ひ路(中海・宍道湖・大山エリア)、風待ち海道(隠岐エリア)の2箇所のルートが登録されているそうだ。
歴史・由緒等
「延喜式神社の調査」さんによると、
風土記の「久多美社」に相当する。
明治44年4月26日、現松江市東忌部町大宮神社社地に、素盞神社・七次神社・山智神社と共に合祀され、忌部神社となつたが、大正12年3月29日旧社地に遷り、旧社号の「久多美神社」の社額を新調して掲げてた。
明和6年(1769)12月朔日久多彌神社造建
天保13年(1842)8月28日久多彌神社再建
明治44年4月26日忌部神社に合祀
大正12年3月29日久多弥神社は旧社地に遷
昭和6年10月郷社
御祭神は大穴牟遅神のみになっている。
味耜高彦根命ははじめて聞く神。
アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、
『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されている。
境内・社叢
御神燈 鳥居
参道 二の鳥居
拝殿 本殿
境内社が一つあった。もれなく撮影したつもりだが、シャッターが押せていなかったようで残っていない。
地名・地誌
忌部(いんべ)
『出雲国風土記』では意宇郡の郷名は郷はなく忌部神戸。郡内には神戸が三箇所あり、他は出雲神戸(松江市熊野大社周辺)、賀茂神戸(安来市安田当たり)。
ウィキペディアによると、
忌部氏(いんべうじ/し、のち斎部氏)は、「忌部(斎部)」を氏とする氏族。
天太玉命を祖とする神別(天神)の古代氏族で、「忌部首」、「忌部連」、「忌部宿禰」のち「斎部宿禰」姓を称した。古代朝廷における祭祀を担った氏族である。
古代日本には各地に部民としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。
中央氏族としての忌部氏は、記紀の天岩戸神話にも現れる天太玉命を祖とする。現在の名神大 天太玉命神社のある奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。しかしながら、勢力を増す中臣氏に奈良時代頃から押され始め、固有の職掌にも就けない事態が増加した。平安時代前期には、名を「斎部」と改めたのち、斎部広成により『古語拾遺』が著され上書された。しかしその後も状況は変わらず、中臣氏のみが栄えることとなった。
朝廷の品部としての「忌部」は、出雲・紀伊・阿波・讃岐が代表的なものとして明らかとなっている。
出雲忌部(玉作氏)
地域:出雲国 – 現在の島根県松江市東忌部町・西忌部町周辺
祖神:櫛明玉命 – 忌部五部神
職掌:玉の貢納
関係地
忌部神社(島根県松江市)
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」「さん
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