但馬五社 絹巻神社(名神大 海神社) 

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 絹巻神社
「絹巻神社縁起」に曰く、正一位海神社絹巻大社

読み:古 アマノカミヤシロ 現 きぬまきじんじゃ
延喜式神名帳 式内社 但馬国城崎郡 海神社(名神大)
所在地 兵庫県豊岡市気比字絹巻2585-1
旧地名 但馬国城崎郡田結郷絹巻山
御祭神
主祭神 天火明命アメノホアカリノミコト
配祀神 海部直命アマノアタエノミコト  天衣織女命*1アメノエロリメノミコト

『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記
祭神 上座 海童神ワダツミノカミ 三座
中座 住吉神 三座
下座 海部直命 海部姫命

『国司文書 但馬神社系譜伝』、
祭神
上座 海童神 小田井県にイマす海童神を遷宮しまつる
中座 住吉神 神倉山ホコラに坐す住吉神を遷宮しまつる
下座 海部直 亦名 大海部彦命
海部姫命 亦名 大海部姫命
一に曰く 櫛日方命クシヒカタノミコト玉櫛姫命タマクシヒメノミコト

*1 天衣織女命は、海部姫命の別称という 『国司文書 但馬故事記』注釈

例祭日 4月28日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡[ケタ]:21座 大4 小17
式内社(名神大)海神社

近代社格制度 旧村社
創建     仁徳天皇10年
本殿様式  流造

境内摂社(祭神)

稲荷社

一口メモ

初詣で賑わう但馬五社の一社としてよく知られた神社。何度も前を通っているが、初詣を兼ねて改めてじっくりお参りした。

「延喜式神名帳」にある但馬国式内社のうち名神大社*1は、以下の通り。

朝来郡 粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
養父郡 養父神社2座 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3
水谷神社 兵庫県養父市奥米地字中島235
出石郡 出石神社8座 兵庫県豊岡市出石町宮内99
御出石神社 兵庫県豊岡市出石町桐野986
気多郡 山神社 兵庫県豊岡市日高町山宮字前田409-3
雷神社 兵庫県豊岡市佐野字稲場542-2
戸神社 兵庫県豊岡市日高町十戸字野18-1
[木蜀]椒神社 兵庫県豊岡市竹野町椒字岩ノ内1738-2
城崎郡 海神社 兵庫県豊岡市小島字海ノ宮965
の18座、10社

現在地(豊岡市小島)の海神社と絹巻神社は別なのかどうなのかが宿題であった。絹巻神社は但馬五社として有名なのに対し、海神社は旧村社で一般には知られていないからである。

歴史・由緒等

由 緒

應神天皇3年4月、大山守命が山海の政を執られた時、大山守命は多遅麻黄沼前県主タヂマキノサキアガタヌシ武身主命の子海部直命に多遅麻(但馬)の海政を執らし、その姓を海部直と称することを許した。その時、海部直命は、自分の始祖天火明アメノホアカリ命を黄沼前県に祀り清明宮スガノミヤと称した。

仁徳天皇10年8月、海部直命アマベノアタエノミコトは城崎郡司を兼ねる事となり、黄沼前県キノサキアガタを海部村(いまの小島)に置き、多遅麻の海人を領し、清明宮を海部村に属する絹巻山に移し絹巻神社と称した。履中天皇の御代、海部直命の子西刀宿禰セトノスクネが城崎郡司となり、宿禰に命じ瀬戸の水門の浚渫シュンセツ*2を行った。爾来、円山川沿岸は洪水禍をまぬがれたと伝えられている。

仁明天皇仁和元年(885)神階従五位下を賜り、文化11年現在の本殿を再建した。絹巻山は天然記念物の指定をうけ「ひめはるぜみ」の生息地として奈良の春日山と共に知られている。

-「兵庫県神社庁」-

『国司文書 但馬神社系譜伝』に、

大巳貴命オオナムチノミコトは、玉櫛姫命を娶り、櫛日方命を生む。
黄沼前郡司 西刀宿禰は、大巳貴命・海童神・船魂神を勧請して、これを祀り、神人(みわひと)を置き、気比義麿をして奉仕せしむ。

『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡故事記に、

人皇十六代応神天皇の三年夏四月、
大山守命に令して、山海の政を統治せしめ給う。
大山守命は多遅麻黄沼前県主 水先主命の子 海部直命を使て、当国の海政を行わしめ賜う。海部直命は当国の海部をツカサドる。人皇十七代仁徳天皇の秋九月、
水先主命の子 海部直命をもって、城崎郡司兼海部直となす。
海部直は諸田の水害を憂い、御子 西刀宿祢命に命じて、西戸水門を浚渫*2せしむ。
れ御田 たわわなる故 功有ると云う。

(中略)

人皇十八代履中天皇 海部直命の子 西刀宿祢命(今の字は瀬戸)をもって、城崎郡司となす。
西刀宿祢命は海部直命を気比丘に葬る。
海部直命は在世中、仁政多く有りき。故れ農人・海人アマヒト等 父母を喪ひしごとく哀泣す。はてに相謀(相談)り、国司に請い、祠を建て、これを祀る。海神社、これなり。

これの由緒をもって、天災風害あれば必ず祓い、不漁の事あれば必ず祈る。

一日(あるひ)神霊、信者に告げて曰く、
「海を守るは黄沼前宮にイマす海童神に有り。
船を守るは神倉宮に坐す船魂神に有り。
この海童神をこの地に勧請し、歳時これを斎き祀れ。
われ風災ごとにこの神等に供(みとも)しまつり、難船を救わん。もし社頭に不時の神火顕(あらわ)るれば、すなわち変災の信と為せ」と。
土人(土地の人)これを黄沼前郡司 西刀宿祢命に奉す。
西刀宿祢命は、国司に請うて、海童神・船魂神を遷(うつ)し、これを祀り、神人を置き、気比義麿をもって奉仕せしむ。

(中略)

人皇五十四代仁明天皇の承和十二年(845)秋七月朔 但馬国城崎郡の無位絹巻神*に正六位上を授けまつる。国司等の解状(請願書みたいなもの)に依るなり。

[国司文書注釈] 吾郷清彦

後醍醐天皇の御歌
仰ぎ見よ 小田井の森にあとたれて 恵みも深き和多津美の神

五社随一絹巻大明神御詠歌
瀬戸を切り つるぎはむねにとどまりて 神さびにけり 気比の宮代

『絹巻神社縁起』

人皇五十四代仁明天皇の承和九年(842)十月官社に預かる。(続日本紀曰く、但馬国城崎郡海神社預官社)
清和天皇貞観十年(869)十月二十七日、従五位上を授けられる。しかるに五十八代光孝天皇の仁和元年(885)二月十日、但馬国正六位上絹巻神社五位下を授けらるとあり。ここにおいて、海神社と絹巻神社と両立して、各別に取り扱われしが、その実は一つなり。

これ実に当時の国守の誤りて、絹巻神、元の名海神社と云うを別社と心得て、絹巻神は未載公簿として奏上したるに因るなり。爾来(ジライ)絹巻神社神主は、海神社絹巻神社大明神と尊称して奉仕すといえども、史に海神社と絹巻神社と各別に両立せしめたるをもって、何人も疑いを抱くと、一つは通称を絹巻神と云うに依り、遂に海神社の所在に疑惑を生じたるなり。

なぜこの海神社の御祭神を絹巻大明神と称えるようになったかについては、
「河合道記」にー絹巻山と云う岩山あり。この山忝(カタジケナ)く絹を巻きたる形のごとし。明神の社あり。但馬五社の内なりーと考証している。

[註]

*1 名神大社(みょうじんたいしゃ) 日本の律令制下において、名神祭(みょうじんさい)の対象となる神々(名神)を祀る神社で、古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。

「延喜式神名帳」)に掲示され、記載に当たっては式内社を「小」、名神大社を「名神大」と略記されている。名神祭は国家的事変が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である。
律令制の弛緩に伴って、名神社は「二十二社」*3へと収縮固定されて名神祭も廃絶したため、中世以後は社格の意味を持たない「明神」にとって代わられた。

*2 浚渫(しゅんせつ) 港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って土砂などを取り去る土木工事のこと。

*3 二十二社

『校補但馬考』絹巻の項に、

『三代実録』曰く、光孝天皇の仁和元年二月十日丙申(ひのえさる)、
但馬国正六位上 絹巻神に、従五位下を授く。
「按(あん)に、絹巻は山の名なり。
延喜式にては、海(アマノ)神社、名神大社なり。
旧事本紀に曰く、天火明尊(アマノホノアカルノミコト)六世の孫 建田背命(タケタセノミコト)は、神服部(カンハトリノムラジ)、海部直(アマベノアタヒ)、丹波国造(タンバノクニノミヤツコ)、但馬国造(タジマノミヤツコ)等の祖なり。
新撰姓氏録に曰く、但馬海直(アマノアタヒ)、火明命の後なりと。神系図に、但馬州城崎郡海部神(アマベノカミ)に祀ると。
右の諸説に因んで考えれば、海神社は海部直を祭るなり。

「河合氏道記」曰く、
絹巻山と云う岩山あり、此の山ことごとく絹を巻きたる形の如し、明神の社あり、但馬国中六社*4の内なり。」
以上、大河(円山川)の東なり。

(*4 六社は但馬五社と、あと一社はおそらく中嶋神社だろう)

 

「兵庫県神社庁」小島の海神社に

由 緒
旧城崎郡唯一座の式内名神大社である。
仁明天皇承和9年(842)官社に預り清和天皇貞観10年(868)従5位上となる。
延喜式の制大社となり天武天皇白鳳3年絹巻神社相殿となる。
明治3年(1870)別殿に仮遷座し、翌4年(1871)本殿を上棟して正遷座祭を行う。
同6年(1873)10月村社に列し12年(1879)2月本殿覆を建立す。

名神大社 海神社は、明治3年までは絹巻神社内の相殿だったが、現在地の豊岡市小島に遷座されたことがわかる。

境内・社叢

  
北側鳥居                     手水舎 社務所前

  
社号標                      鳥居・境内


社頭掲示板

  
社殿 平成19年に社殿を修復           拝殿・本殿


境内社 稲荷社

地名・地誌

気比ノ浜(けひのはま)
『校補但馬考』田結郷の項に、「気比、田結、湯嶋、桃島、小島、瀬戸、津居山 右気比庄と云う。

普段“けのはま”と地元では呼ぶ。
円山川河口は、沼を切り開いたという伝説で知られる。
あいにく曇り空だった。子供の頃海水浴に連れて行ってもらったのがなつかしい。
気比神社に行くつもりだったが、何度も捜してみたのだけれど今回は行けなかった。
後で反対側の方にあるのが分かった。
付近で銅鐸が発見されたところ。
但馬の歴史に深い神社が多く、今、津居山が気になっているので近々また訪ねたい。

地 図

兵庫県豊岡市気比2585-1

交通アクセス・周辺情報

参 考

Follow me!