式内 与杼神社
Contents
概 要
現社 号 与杼神社
読み:よど
古く淀姫社・水垂社
延喜式神名帳 式内社 山城国乙訓郡 與杼神社
読み:ヨド
所在地 京都市伏見区淀本町167
旧地名 山城国乙訓郡
御祭神 高皇産霊神 豊玉姫命 速秋津姫神
例祭日 10月8日 秋季祭 11月20日 新嘗祭
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内神 658座 大 231座 小 427
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
乙訓郡(オトクニ) 19座(大5座・小14座)
近代社格制度 旧郷社
創建 応和年中(961~964)肥前国佐嘉郡河上社から神功皇后の姉豊玉姫を勧請
本殿様式 流造 柿葺
境内摂末社(祭神)
日大臣社・長姫社・川上社・豊丸社
文化財
拝殿 国指定重要文化財
一口メモ
大阪城と伏見桃山城の中間にある淀城跡は、与杼神社に隣接する公園内に寂しそうに併存している。最初は与杼神社だと思ってこちらから入った場所にあるのは、稲葉神社。
歴史・由緒等
豊玉姫命・高皇産霊神・速秋津比売命を祀り、古くは、淀姫社、又は水垂社とも呼ばれていた。
社殿によれば、応和年間(661-64)僧千観内供が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まると伝えられている。当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)淀川改修工事のためここに移された。
境内には、本殿、拝殿、神輿倉をはじめ日大神社、長姫社、川上社、豊丸社などの各社殿が建てられている。中でも拝殿は、慶長12年(1607)に建築されたもので、国の重要文化財に指定されている。
毎年10月に行われる例祭は「淀祭」と呼ばれ、多くの人々で賑わう。「社頭掲示板」
元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。 (当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)
桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。
なかでも本殿・拝殿は明治年間に移築・遷座が行われたにも拘らず、良く当初の建築様式を保存していたので、昭和46年6月22日(同年3月26日内定)に本殿(本殿内の木造狛犬一対を含む)と拝殿の二棟が国の重要文化財に指定されました。
しかし、残念ながら本殿は、昭和50年8月5日午後4時30分頃、未成年者達の花火(飛翔性花火)遊びにより国指定の貴重な重要文化財は全焼してしまいました。
『神社公式サイト』より
境内・社叢
手水舎
入口狛犬
拝殿
本殿
日大臣社
拝殿左境内社 長姫社・川上社・豊丸社
境内に残るのは淀城石垣跡か?
稲葉神社
御祭神 稲葉正成公 淀藩稲葉家の祖
社頭に掲げる由緒によれば、
稻葉家が、その藩祖・稻葉正成(1571–1628)を祀った社」という。祭神稲葉正成公は、妻の死去により明智光秀の重臣斉藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え、再婚したのが、有名な「春日局」。
正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり五万石を領した。
秀吉の没後、慶長五年(1600)関が原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。その後、下野国(栃木県)真岡の城主となり、二万石を領したが、寛永五年(1626)江戸において没した。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて五代目の正知の時で亨保八年(1723)下総国(千葉県)佐倉より十万二千石で入封した。
その後、明治四年(1871)十六代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が十二代148年間にわたり淀藩主であった。
「享保8年(1723)から廃藩置県(明治4年-1871)までの淀藩主であった。
鳥居 手水舎
地名・地誌
淀
京都府京都市伏見区西南部に位置する地域。淀川水系の宇治川と桂川に挟まれた場所にある。江戸時代は城下町(淀城)であり、また宿場町(淀宿)でもある交通の要衝であった。現在も旧京阪国道や京阪本線が淀を通っているものの通過点に過ぎず、むしろ競馬のメッカ(京都競馬場)として知られている。
地 図

交通アクセス・周辺情報
ホームページ
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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