式内 大酒神社
Contents
概 要
社号 大酒神社
読み:おおさけ
延喜式神名帳 式内社 山城国葛野郡 大酒神社 元名大辟神
所在地 京都市右京区太秦蜂岡町30
旧地名
御祭神 主祭神 秦始皇帝,弓月王,秦酒公
配祀神 相殿 兄媛命,弟媛命(呉服女,漢織女)
例祭日 京都三大奇祭の1つ「広隆寺牛祭り」 10月10日
社格等
古代社格制度:『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
葛野郡(カドノ) 20座(大14座・小6座)
式内社
近代社格制度 旧村社
創建 嘉祥2年(849)9月16日 「奉授山城國葛野郡大辞神從五位下」『続日本後紀』
本殿様式 流造
境内摂末社(祭神)
八幡社・稲積社・木枯社
一口メモ
東映太秦映画村から広隆寺手前の交差点北に太秦明神とあるので別の社かと思った。
歴史・由緒等
もとは広隆寺境内、少し北東の現社地へ遷座。旧社地に大酒神社があった頃、大石を御神体にしていたとの記録がある。
由 緒
当社は、延喜式神名帳葛野郡20座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇8年(356年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。
后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇14年(372年)百済より127県の民衆18670余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。
数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。
広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で10月10日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。
尚、603年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。
又、大宝元年(701年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和銅4年(713年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。「社頭掲示板」
境内・社叢
鳥居
社頭掲示板
手水舎 ?
拝殿 本殿
境内社はどこにあるのか分からなかった
地名・地誌
太秦(うずまさ)
京都には難解な地名が多いが、太秦もその代表格。京都市右京区梅津以北から京都市北区に挟まれた地域。「太秦」という地名の由来には諸説あるが、雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が、絹を「うず高く積んだ」ことから、「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説。
地 図
交通アクセス・周辺情報
広隆寺・東映太秦映画村
参 考
「京都観光NAVI」 http://kanko.city.kyoto.lg.jp/
「延喜式神社の調査」
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