舂米(つくよね)神社(兵庫県豊岡市日高町東構)

投稿者: kojiyama 投稿日:

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概 要

社号  神社 (臼は[旧]*1)
読み:つくよね、つきよね
通称:つくよねさん

*1  鳥取県八頭郡若桜町つく米の本社でも、舂は臼ではなく旧と書く。
所在地 兵庫県豊岡市日高町岩中56-1(東構区)

旧地名 但馬国気多郡高生郷岩中(東構区域は同高田郷祢布を含む)

御祭神

主祭神 天之御中主神アメノミナカヌシノカミ
配祀神 高御産巣日神タカムスビノカミ神御産巣日神カミムスビノカミ

例祭日 10月第4日曜日

社格等

無格社
(近代社格制度施行(明治4年)以降、大正15年創建のため、村社の申請を行えなかったのではないかと思われる)
創建 大正十五年(1926)

本殿様式 板葺き三社

一口メモ

拙者の生まれ育った区内の神社。当区は下記の通り、新しい区として分立し、平成27年(2015年)、100周年を迎えることになった。

区内や隣近所のつながりが薄れ、コミュニティが今こそ大切な時代ではないかと思うとき、大正時代にわずか十数軒で発足した当区も、いまや旧日高町内でも大きな区に発展し、200世帯を超えた。どこにでもある小さな社である。しかしそこに、我々日本人のルーツや先人たちが苦労して誕生した当区。

島根県から福井県までの日本海側の式内社や兵庫県下、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、三重県など関西の式内社を中心に廻ってみて、公民館であり、コミュニティなどカタカナで今さらイメージを変えて新しくようとも日本こそ理にかなったそのコミュニティ社会を数千年、日本は昔から理にかなった世界でも最も民主主義であったことをいや何万年も維持してきたことを再認識する。日本人とはそこに万物に感謝しそこには神様がきっといると感謝の心を持つ。天皇と公民、古代律令制から「公民」という言葉が作られ、その集まり所が神社であった。公民館をコミュニティセンターと言い方に変えれば、逆に繋がりは薄まっていくのではないだろうか。そこに神社という心の拠り所があってこそひとつにまとまってきた。その意義をもう一度考える原点にあるのが神社といえることができる。

 

歴史・由緒等

豊岡市日高町で最も新しい神社。

大正十五年一月区民の熱望滋に結実し、同年六月社殿が落成した。昭和二年鳥取県若桜町%e3%81%a4%e3%81%8f米神社の御神霊を戴き、%e3%81%a4%e3%81%8f米神社となる。天地の初発最初に現れ、日本の神々の中心となった神を天之御中主神とす。高御産巣日神(男神)、神御産巣日神(女神)は、天之御中主神一神の分身である。

男神女神相結び協力して国を生み人を生み育て、世の繁栄を計り賜う。世の人々両神を結びの神、または安産の神として信仰する事極めて厚し。その他願い事、厄除等の祈願においては、神示の霊顕あらたかなり。

『ひがしかまえ区誌』(S60.1.10)によれば、

「大正4年(1915年)に東構区が祢布区から分かれ発足する。新区独立後、祢布村出身の区民は、祢布の楯石神社に参拝していたが、他地区から転入する区民が増加するに従い、祢布村出身者以外の者の神社参拝を遠慮されたしという通達が祢布村よりあり、これを機に大正12年(1923年)自区内に神社を建てようという気運が盛り上がる。

大正15年(1926年)1月、社殿建築を決定。用地取得と社殿の建築には巨額の費用が必要なため、各戸の経済事情に応じて割当し、四年間の分割徴収を行った。総支出総額は、2,148円71銭。大正15年6月23日、社殿落成。

祭神の決定

区民の意見を取りまとめた結果、明治神宮の遥拝所にしようと決定。長谷川利雄氏が区を代表して東京へ行き、明治神宮の遥拝所としての認可を 受けることができた。したがって、祭事には明治神宮ののぼり旗を立てていた。

その後、三方村荒川(今の荒川区、式内神門神社)の吉田神官が%e3%81%a4%e3%81%8f神社の御神霊を奉持されていることを聞き、それを勧請した。県の神社庁にも登録され、正式に神社となった。

なお、祭神の本社は、鳥取県若桜町の神社である。

なお、同じ豊岡市日高町山田の三柱神社境内社吉野権現社も、同じ鳥取県若桜町舂米の舂米神社からの勧請である。
御祭神の三柱

御祭神の三柱は、古事記では、序文に次いで本編の冒頭で創世編に記される天地開闢てんちかいびゃく(天地のはじめ)に最初に登場する三神である。「造化の三神ぞうかのさんじん」と呼ばれ、高天原に現れた最初の神々である。神社はその「造化三神」を祀る。

『古事記』最初の一節

天地初めてひらけし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ、次に高御産巣日神たかみむすひのかみ、次に神産巣日神かみむすひのかみ、この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隠したまひき。
次に國わかく浮きしあぶらの如くして、海月くらげなす漂へる時、葦牙あしかびの如く萌えあがるものによりて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神うましあしかびひこじのかみ、次に天之常立神あめのとこたちのかみ。この二柱の神もまた獨神と成りまして身を隠したまひき」

天と地が初めて分れたときに、高天原たかまがはらに現れた神々で、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ、次に高御産巣日神たかみむすひのかみ、次に神産巣日神かみむすひのかみである。この三柱の神は「造化三神」と呼ばれ、妻や子のいない独神で、姿かたちもない。続いて、二柱の神が生まれた。宇摩志阿斯訶備比古遅神うましあしかびひこじのかみ、次に天之常立神あめのとこたちのかみ

この五柱の神は性別はなく、独身のまま子どもを生まず身を隠してしまい、これ以降表だって神話には登場しないが、根元的な影響力を持つ特別な神である。そのため別天津神(ことあまつかみ)と呼ぶ。

次に、二柱の神が生まれた。

  • 国之常立神(くにのとこたちのかみ)
  • 豊雲野神(とよくもののかみ)

この二柱の神も性別はなく、これ以降、神話には登場しない。

このあと引き続いて、イザナギとイザナミの間に産まれた諸神の中でも最も尊いとしたアマテラス(天照大神)、ツクヨミ(月読)、スサノオ(素盞鳴)の三貴子が産まれる。このアマテラスは、『古事記』天照大御神・『日本書紀』天照大神、伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う。皇室の祖神である。

以上の七組十二柱を総称して神世七代(かみのよななよ)という。

つまり、祀られている造化の三神は、アマテラスをはじめとする皇室の天津神と地方の国津神の神々が誕生し、日本が誕生する以前の混沌とした宇宙であり、男女の区別もない超越した神々といえる。

(つくよね)


舂米とは、年料舂米(ねんりょうしょうまい)で、日本の律令制において、諸国より毎年一定量の舂米を中央に貢進させる制度、またその舂米そのもののことであろう。

なお神社の舂米の「臼」は「旧」が正しい。漢和辞典によると、「舂」 音:ショウ、訓:つく。うすづく。臼でつく。とある。

勧請元の本社である鳥取県若桜町舂米に地名も舂米(つくよね)の「臼」は「旧」の字である。また、舂の漢字は存在するが「臼」の部分を「旧」にした漢字はJIS第一、第二、第三、第四水準漢字には存在しない文字であるため、コンピュータで作成する場合、「舂」の字を代用するケースが多い。

余 録

中世の山陰道のルートの一つとして、氷ノ山(須賀ノ山)の因幡(鳥取)の舂米を通るルートが記されている。

天正三年(1575)日向国佐土原領(宮崎県)の領主島津家久が記した伊勢参宮のための旅行記『中書家久公卿上京日記』と『にしかた日記』のなかで、鳥取の舂米を通り但馬通過のルートが記されている。
6月14日、遠坂峠(丹波・但馬境:今の丹波市と朝来市境)
遠坂峠を越えて、「やなせの市場を通る。」ついで「垣屋との(殿)の持つたかた(高田・今の養父市高田)の町に休らう」。そこから谷間地はさまじ(養父市上野)、広谷を過ぎ、「一日坂ひとえさかといえるを越え(今の琴弾峠)、八木殿の町(養父市八鹿町八木)に着いて一宿」する。
ついで山陰道から別れて、「ひほの山(氷ノ山)とて大山を越え、つくよね(舂米)といえる村」に着く」とある。

『中書家久公卿上京日記』(1575)・『にしかた日記』(1557)によって、当時、養父郡域内では、山陰道として今の国道9号線である養父市場・村岡・湯村から、鳥取県・兵庫県境の蒲生峠を通らず、関宮で鉢伏高原の南から、氷ノ山の裾を越えて、因幡國境の峠道舂米から鳥取城下へと向かったことがわかる。

これらを見ると若桜の舂米村への往来はさかんだったようだ。

さて、全くの偶然だが、このルートは国道482号線とほぼ同じなのである。鳥取県八頭郡若狭町舂米(舂米神社)と兵庫県豊岡市日高町東構の当社は、国道482号線でつながっているのである。なんとこのルートは、大正時代、旧日高村の藤本俊郎村長らによる「幻の山陰本線「但馬鉄道計画」氷ノ山越えルート」『日高町史』でもあり、現在神社の北を、国道482号が鳥取県若桜町舂米つながっている。(県境部自動車不通区間あり)

経営多角化路線を加速する鈴木商店の最初の鉄道敷設計画。

明治後期、各地に鉄道敷設が盛んになり、舞鶴の軍港と大阪間の阪鶴鉄道(現・JR福知山線)開通を皮切りに山陽、播但等の鉄道が敷設されると舞鶴・軍港と鳥取・陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が浮上。但馬鉄道計画は、こうした状況を背景に計画されたもので、後の北海道・羽幌炭鉱鉄道に先立つ鈴木商店初の鉄道敷設計画であった。

大正5(1916)年、鈴木商店は兵庫県江原(現・豊岡市日高町江原)~三方村(現・同市日高町庄境)間の鉄道敷設免許交付を受けた。これは蝋石運搬用の鉱山鉄道として計画したものだが、鈴木商店の事情から工事施工認可されるも大正8(1919)年、建設を断念。

同時期に日高町町長・藤本俊郎は、かねて江原から村岡を経て鳥取・若桜に抜ける鉄道敷設と自身が株主でもあり既に営業運転されていた出石軽便鉄道を結ぶ壮大な構想をいだいていた。鈴木商店が断念した但馬軽便鉄道の建設利権の譲渡を受けた藤本は、同年「但馬軽便鉄道株式会社」を設立し、工事着工に踏み出すも藤本自身が政治失脚したことから計画半ばで頓挫してしまった。大正15(1926)年、鉄道敷設免許は失効し、但馬軽便鉄道計画は、幻に帰した。また出石軽便鉄道も戦時中、軍部に強制接収されたまま事業停止に追い込まれた。

-鈴木商店記念館-

大正15(1926)年、但馬鉄道計画が敷設免許失効し頓挫した同じ年に区の舂米神社が社殿落成したのも、偶然ではあるが感慨深い。

境内・社叢

  
鳥居・社号標                       手水

  
境内                        社殿(新年のしめ飾り)

   
狛犬


社頭掲示板

秋祭り 最後の竹だんじり(2012)

  

百年近く続いてきた竹だんじりも、もう竹や縄の確保が難しくなり、世帯増で若手は増えているが、今年最後となる。来年からは神輿に。

[参考] 鳥取県八頭郡若桜町 神社

正直に言ってそれほどすごい神さんとは子供時代から最近まで思っていなかったのであるが、氷ノ山を囲む4国の総社であったならすごい神社であるのだ。*1東構の神社では舂米の臼がなぜか旧の時になっていて、本来は若桜町の舂米神社の分社なのだから、臼が正しいのではないのかと思うのだけれど、どうして旧になったのであろうか。また、地名表示は「旧」である。舂の漢字は存在するが「臼」の部分を「旧」にした漢字は第一、第二水準漢字には存在しない文字だからなのである。

鳥取県八頭郡若桜町(つくよね)神社

地名・地誌

東構区(ひがしかまえ)

大正4年(1915年)に東構区が祢布区から分かれ発足。岩中字東柳(ひがしやなぎ)の「東」と、祢布字北構(きたがまえ)の「構」を合わせて東構とする。平成27年(2015年)区制百周年を迎えた。

神社の地番は岩中字東柳。区内の大半は岩中に属し、道をはさんで神社の西から久斗区の境まで祢布に属す。区内に市立日高小学校、幼稚園、蓼川保育園、日高病院(現日高医療センター)、老人ホームことぶき苑、県立蚕業試験場跡地には日高防災公園「まゆの里」があり、国道312号バイパス、豊岡自動車道仮称日高IC(H29年度開通予定)や、神社のすぐ裏手に日高文化体育館、豊岡市日高振興局(旧日高町役場)、県立日高高校に隣接するなど、旧日高町の公共機関が集まり、世帯数が年々増加している。現在の戸数、約200世帯、アパートを含めると約230世帯で、旧日高町でも1、2位の大きな区となった。

地 図

兵庫県豊岡市日高町岩中56-1

交通アクセス・周辺情報

国道312号線祢布(交差点)と祢布南(交差点)の間、出光スタンドの横の道を南に右折して300 m。

参 考

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