(養父町) 名神大社 養父市 旧府社・県社 兵庫(但馬国)

但馬五社 名神大 養父神社

概 要

社号 名神大社 養父神社
式内社 但馬国養父郡夜夫坐神社五座 (名神大二座小三座)
読み:古 ヤフニイマス 現 やぶ
所在地 兵庫県養父市養父市場字宮ノ谷827-3
旧地名 但馬国養父郡養父郷市場村
御祭神倉稻魂命(うかのみたまのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命) 谿羽道主命(たにはのみちぬしのみこと) 船帆足尼命(ふなほそこねのみこと)

『国司文書 但馬故事記』 上座:大巳貴命中座 中座:蒼稻魂命・少彦名命下座:丹波道主命・船穂足尼命
『国司文書 但馬神社系譜伝』には上座:大巳貴命中座 中座:蒼稻魂命・少彦名命下座:丹波道主命・船穂足尼命、さらに別宮上座 稚産霊命(わくむすびのみこと)中座 天熊人命(あめのくまひとのみこと)下座 足朽彦命(あくちひこのみこと)

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
式内社(名神大)五座大二座小三座
中世社格制度 但馬國三ノ宮
近代社格制度 郷社
明細帳に明治十二年4月縣社格如列とあり。但馬五社の一つ
創建   年月不詳
本殿様式 入母屋造檜皮葺 正面千鳥破風付

境内摂末社(祭神)

山野口神社 加遅屋(かじや)神社 御霊神社 琴平神社 五社神社 厳島神社 稲荷神社
神紋:横木瓜

文化財

兵庫県登録有形文化財
本殿・拝殿・摂社山野口神社本殿、摂社五社神社本殿の4棟の建造物(共に江戸時代後期から末期)

一口メモ

但馬五社の一つで参拝者が多い神社。上社・中社・下社があり大きな神社で、子供の七五三に拝んでいただいたが、久しぶりに訪れた。「養父の明神さん」と呼ばれ、農業の神として知られている。 養父神社のある養父市場は古くから但馬牛の牛市の中心地であり、現在でも円山川対岸の大藪にある但馬家畜市場で但馬牛のせり市が開かれている。但馬国府や因幡路に通じる旧山陰道の重要な宿場町として栄え、今もJR山陰本線が走るそばに鎮座していることから列車からも社叢を見ることができる。
崇神天皇三十年(紀元前66年)創祀と伝えられ、天平9年(737年)の『但馬税正帳』に出石神社、粟鹿神社とともにその名が見える。但馬牛の牛市の中心地に位置する。摂社五社神社の五十猛命は牛取引の神とされる。当初は弥高山全体が神体山であり、山頂に上社「保食神、五十猛神」、中腹の中社に「少彦名命」麓の下社に「丹波道主命、船帆足尼命」があったと記されている。

歴史・由緒等

養父神社は、崇神天皇三十年(皇紀五九四年)(紀元前66年)ご鎮座になり約二千年となります。 御祭神 倉稲魂命---米麦養蚕牛馬の神様少彦名命---薬草、治病の神様 大巳貴命(大国主命)---国土開発統治の神様 谿羽道主命(四道将軍のひとり丹波道主命)---重要な国民生活安定の神様 船帆足尼命---地方政治の神様

仁明天皇承和十二年(845)秋七月、但馬国養父郡の無位養父神(養父神社)に、従五位上に叙し、清和天皇貞観十一年、従五位上養父神に正五位下に叙され、十六年正五位上を加えるとあります。 醍醐天皇の時代、延喜式が定められるに当たり、養父神三座を名神大社として登載されています。 江戸時代の養父神社は、神社の南東、標高372mある弥高山(一名 水谷山)の山頂に上社、中腹に中社、現在の養父神社の位置に下社を置いていました。その后、明治初頭に社殿を下社に統合しました。養父神社の信仰はもともと本殿の背後にそびえる弥高山の全体に社殿を配置する山岳信仰でもあります。明治六年郷社となり、十二年四月県社に昇格いたしました。

社殿については、御霊社は応永三十年(皇紀2083年)(西暦1423年)に建てられたものです。本社並びに山野口神社は元禄九年(皇紀2356年)(西暦1690年)の建立です。社務所は元禄年中の建立と伝えられます。境内地並びに社有地数千坪にして四季の花咲き乱れ、風光明媚にして参拝者多く、交通安全・厄除開運祈願所、結婚式式場として現在活用されつつあります。 -養父神社公式HP、パンフレットよりー

養蚕と養父神社信仰養父市大屋町蔵垣の上垣守国が享和3年(1803)に出版した『養蚕秘録』がある。シーボルトが養蚕秘録をオランダに持ち帰り、嘉永元年(1848)にパリとトリノで農業技術書として翻訳出版された書物。「この社(養父神社)を養蚕の御神として、国中の民、糸錦を初穂として捧げ、祈祷なすもむべなり。また広前の小石を敷きて帰り、蚕のかたわらに置きてネズミを除ける守護とする。これを猫石という」「この御神は、狼を使令(つかわしめ)とし給うゆえに、猪鹿出て作物を荒らす時、この社に詣で」と書かれている。養父神社の拝殿の前に、狛犬と拝殿に近い位置に尻尾を高く上げた一対の狼の石像がある。狛犬のように見えるが、狼は明治26年(1893)に建立された狼の石像で、口を開けているのが雌(めす)で、閉じているのが雄(おす)。日本狼は明治38年(1905)に絶滅したが、養父神社には石像として残っている。田畑を荒らす猪や鹿から作物を守る益獣として、狼を守り神とする伝承が400年以上も昔から残っている。

(神社のご案内より抜粋)

由 緒
創立年月不詳なるも仁明天皇承和12年(845)従五位下の神階を授けられ、清和天皇貞観11年(869)正五位下に進み、同16年(874)正五位上となれり。
延喜式の制名神大二座、小社三座となり。
明治6年(1873)10月郷社に列し、同12年(1879)4月縣社に昇格せり。-「兵庫県神社庁」-

『国司文書・但馬神社系譜伝』・『国司文書・但馬故事記』に養父神五座の関係を知ることができる。

『国司文書 但馬神社系譜伝』
養父神社(夜父坐神社) 養父郡養父村鎮座
祭神 上座 大巳貴命
中座 蒼稻魂命・少彦名命
下座 丹波道主命・船穂足尼命
別宮 上座 稚産霊命
中座 天熊人命
下座 足朽彦命

人皇一代神武天皇の十五年秋八月、屋岡(今の八鹿)県主佐伎津彦命これを祀る。
大巳貴命おおなむちのみことは、素戔嗚尊すさのおのみことの御子なり。母は櫛稲田姫命くしなだひめのみことという。
またこの命は、素戔嗚尊の六世孫たる天冬衣命の御子。母は刺国若姫命ともいう。(中略)
蒼稻魂命うかのみたまのみことは、素戔嗚尊の御子なり。母は大山祇命おおやまつみのみことの娘・神大市姫命かむおおいちひめのみことなり。
少彦名命は、高皇産霊神たかみむすびのかみの御子なり。
丹波道主命たにはみちぬしのみことは、開化天皇の皇子・彦坐命が天御影神の女・息長水依姫命を娶り生むところなり。
人皇十代崇神天皇の十年秋九月、彦坐命は将軍に任ぜられ、丹波(丹波・丹後・但馬に分けられる前の古丹波)に差し遣わされ、良民を順撫し、不逞の徒を征す。
11年4月、彦坐命は水谷宮に鎮座す。()
船穂足尼命ふまほのすくねのみことは、彦坐命の五世孫なり。父は大多牟坂命、母は大津姫命にして、墨坂大中津姫命の女なり。
人皇13代成務天皇お五年秋九月、丹波竹野別(たかののわけ)の同祖、彦坐命の五世孫、船穂足尼命をもって、多遅麻国造と定む。
人皇15代神功皇后の元年夏5月 船穂足尼命は大夜父宮にこうず。(船丘山(大藪) 養父市大薮古墳群と思われる)寿齢135歳。
船穂足尼命の御子、夜父県主・宇留波命は、船穂足尼命を夜父宮(養父神社)の下座に祀る。
稚産霊命わくむすびのみことは、伊弊諾神いざなぎのかみの御子。天熊人命は、稚産霊命の御子。足朽彦命あしくちひこのみことは、高皇産霊神の御子なり。
みな五穀・蚕桑を幸います神なり。

『国司文書・但馬故事記』
人皇15代神功皇后は、仲哀天皇の2年(193)、夜夫大神(養父神社)にさいし、熊襲の降伏を祈り給う。気多郡の物部連大売布命の子・物部多遅麻連公武を以って、多遅麻国造と為す。
この命は、船穂足尼命の娘・美愛志姫命を娶り、物部連多遅麻毘古を生み、美愛志姫命の弟・宇留波命を、夜夫県主と為す。
宇留波命は、船穂足尼命を夜夫宮下座に斎き祀り、また将軍丹波道主命を水谷丘に祀り、これを水谷神社と称しまつる。(名神大 水谷神社)
人皇16代応神天皇元年(270)秋7月、宇留波命の子・建稲種子命を、夜夫県主と為す。母は勝田姫命で、朝来県主・当勝足尼(まさかつのすくね)命の娘なり。建稲種子命は、その父・宇留波命を夜夫宮代丘に祀る。(式内 宇留波神社)
人皇54代仁明天皇承和12年(845)秋7月、但馬国養父郡の無位養父神(養父神社)に、従五位上を授く。国司らの解状(願書)によるものなり。
人皇56代清和天皇貞観11年(869)春3月22日、但馬国従五位上養父神に正五位下を授く。
16年春3月、但馬国正五位下養父神に正五位上を授く。

『国司文書 但馬郷名記抄』に、船丘山陵墓多遅麻国造・船穂足尼命(ふなほのすくね のみこと)のご陵墓なり。いま大養父村にあり。(中略)船岡山に祀り、守戸ニ烟を置く。

とあるから、船丘山陵墓とあるは、大藪古墳群の但馬最大の禁裡塚古墳か、いずれかではないかと思う。

養父神社は、昔は彌高山山頂に上社、中腹に中社、麓の現在地に下社があったらしい。彌高山は、一名水谷山とも称し、当社も、養父水谷大明神とも、水谷大社とも呼ばれていた。ただし、当地の式内社に水谷神という名神大社が存在しており(現在は養父市奥米地)、当社との混同も考えられる。
式内社・夜夫坐神社五座に比定されている古社で、五座のうち二座が名神大社、三座が小社と記されている。

「筑紫紀行」
「筑紫紀行」は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行記として出版され、明治にも多く読まれていたようである。但馬の江戸享和期のようすが克明に記されているので興味深い。

筑紫紀行巻之九「大川の岸を通りて二十軒計(ほど)行けば養父の宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ほど。商家大きなる造酒屋茶屋宿屋おほし。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。
町をはなれるは。道の両側松の並木のあるべき所に。桑をひとし植え並べたり一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳に但馬国養父郡水谷神社とある御社か。
坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。門は草葺き(かやぶき)、拝殿本社は檜皮葺き(ひはだぶき)なり。左の方にお猫さまの社*1とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰りて家に置く時は鼠を僻といふ。又しばし行きて五社明神の御社なり。是は神名帳に但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に。山の口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。

*1山野口神社は狼の宮、迦遅屋神社は猫の宮、厳島神社は鯉の宮と呼んでいる

  • 弥高山が別名水谷山と呼ばれていた
  • 江戸時代までは、養父神社と水谷神社は隣接しており、養父の宿(市場)から一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神。そこから坂を登ると随神門あり(養父大明神)。これは神名帳に但馬国養父郡水谷神社とある御社か?と記されてる
  • 養父水谷大明神とも呼ばれていた

以上から、弥高山山頂の上社が水谷神社で、街道沿いに遷されていたか、遥拝所だったかも知れない。

境内・社叢

  
社号標               鳥居

  

川の方向にも参道への石段があり、古い道標が2柱あった。神社の案内か山陰道の道しるべなのかなと思ったのだが、古くて字が読めなくなっているので分からなかった。北側 円山川と並行するJR山陰本線、旧山陰道本来は道からの石段が参道だが、駐車場から社務所までは広い登り道がある。境内へ赤い神橋?がかかっている。


車で社務所横駐車場から赤い橋を渡る

  
御神門(随身門)         境内


拝殿

   
拝殿前には狛犬ではなく尻尾を高く上げた狼の石像が建てられている「構え獅子」型。(出雲の狛犬では、腰を上げて今にも飛びかかろうというポーズの「構え獅子」型(crouchingstyle)と、普通に蹲踞しているお座り型(sittingstyle)に大別される。普通の獅子とは違う丸い顔だが狛犬と思う。狼といわれなければわからなかった。


本殿

  
境内社(本殿手前並び順)          御神門より琴平神社


五社神社

  
境内社(本殿左横)御霊神社(旧本殿)     向拝彫刻が見事


本殿奥 山野口神社

   
境内社 迦遅屋神社             厳島神社


社務所右手 稲荷神社

お走り祭り-養父市指定無形民俗文化財

当地の最大祭礼に「お走りさん」と呼ばれる御渡祭がある。
当社から、18Km離れた南の斎神社まで走るように御輿が引かれる神事で、昔、円山川一帯が泥海であった時、斎神社祭神の彦狭知命が、城崎の瀬戸の山を切り開き泥海を美田に変えた。その神恩に報いるため、五社明神(粟鹿・養父・出石・小田井・絹巻)の名代として礼参に赴いたもの。あるいは、神功皇后が半島から帰国した時、その無事をお祝いとして「葛の葉の餅」を功のある神社に賜わった。そのため、養父神社より斎神社へ神幸があったといい、1800年前から行われているという。あるいは、男神と女神の、年に一度の逢瀬であるとも。

お走りさん(おはしりさん)は毎年4月中旬に兵庫県養父市で行われる伝統の祭り。お走り祭り。お走りさんは愛称。但馬に春を告げる祭りで養父神社を発した約150kgもある神輿が集落を練り歩きながら20km離れた斉神社にお参りにする。「ハットー、ヨコザルカ」の掛け声をかけながら巡る。首まで浸かり大屋川を渡る「川渡御」(かわとぎょ)は勇壮果敢といわれている。但馬三大祭りの一つ。

地名・地誌

養父(やぶ)

養父は古くは夜夫とも記されている。
『国司文書 但馬郷名記抄』天火明命は大巳貴命の勅により、これを領知す。この時青雲の弥生国(やふのくに)と宣言す。この故に名づく。
一に曰く、この土(土地)は上古竹藪(たけやぶ)なり。故に藪という。けだし俗説か。
神戸・神田・宇留波村・水谷村
『国司文書 但馬故事記』(第三巻・養父郡故事記)に、
天火明命は、また天熊人命(あめのくまびとのみこと)を夜夫(ヤブ)に使わし、桑を栽培する地をあわせて作らしむ。天熊人命は夜夫の谿間(タニマ)に着き、桑を植え、蚕を屋岡(八鹿)に飼う。ゆえにこの地を、谿間の屋岡原と云う。谿間の名はこれに始まる。(註 谿間は但馬の古名)(中略)
時に、国作大己貴命・少彦名命・蒼稲御魂命(うかのみたまのみこと)は、高志国(越国)より帰られ、御出石県に入られ、その地を開き、天火明命を召して、「汝命(いましのみこと)、この国を統治すべし。」と。
天火明命は大いに歓んで云う。
「大変に良い永世(とこよ)でございます。青雲(高尚な)弥生国(やふのくに)」と。(いま夜夫を云う。是なり)

『校補 但馬考』養父郡
倭名類聚抄(和名抄)に載する郷10
糸井・石禾(イサワ)・養父・軽部・大屋・三方・遠屋(トホヤ)・養耆(八木)・浅間・遠佐(ヲサ)以上十郷に、村数102あり。
養父郷 村数7
市場・鉄屋米地(カナヤメイジ)・口米地・中米地・奥米地・大藪・薮崎この郷、古代の社の名を称える。故に(養父)庄と云わず。

地 図

兵庫県養父市養父市場827-3

交通アクセス・周辺情報

鉄道・バス
JR山陰本線養父駅より徒歩約2km
JR山陰本線養父駅より全但バス「八鹿駅」行きで養父明神下車すぐ
JR山陰本線八鹿駅より全但バス「和田山・山口」行きで養父明神下車すぐ
道路
舞鶴若狭自動車道・福知山ICより約1時間
遠阪トンネル有料道路・朝来市側出口より約20分
播但連絡道路・和田山ICより約15分
道の駅やぶおよび道の駅但馬楽座より約5分

参 考

神社公式案内、HP、兵庫県神社庁、ウィキペディア他

但馬の神社と歴史三部作

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