式内 山狹神社(下山佐)・同社坐久志美気濃神社
Contents
概 要
社号 式内 山狹神社
式内社 出雲国意宇郡 山狹神社
読み:古 ヤマサ、現 やまさき
『出雲国風土記』「夜麻佐社」
江戸時代「熊野神社」(通称熊野権現)
所在地 島根県安来市広瀬町下山佐1176
旧地名 出雲国意宇郡
御祭神
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)、速玉男命 事解男命
伊弉册尊 速玉男 事解男 『雲陽誌』
伊弉諾尊 速玉男 事解男 『出雲国式社考』
久志美気野神(くしみけののみこと) 『特撰神名牒』
例祭日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国:大2座・小185座
意宇郡(オウ):48座(大1・小47)
近代社格制度 旧村社
創建
本殿様式 大社造銅板葺
境内摂末社(祭神)
境内 式内社 同社坐久志美氣濃神社 御祭神:加夫呂伎熊野大神(別名 久志美氣濃命)
愛宕神社・稻荷社・久米社・牛荒神社
一口メモ
広瀬町の中心部から国道432号線を南西に約4km。神社は飯梨川の支流山佐川沿いに大きくカーブするところの細長い丘に鎮座する。式内 山狹神社はこの山狭地区が上山佐と下山佐あってどちらも式内山狹神社となっているので、ある意味興味深い神社。鳥居から石段を登ると長い参道が丘の端まで延びている。後で分かったが、県道横の土俵が見える場所からも参道があってそちらが近い。
歴史・由緒等
風土記の「夜麻佐社」に相当する。
風土記の時代にはこの夜麻佐地区に二社あったものが、式の時代になると一方が他方に合祀され一社になった。近世になると、この山狭地区が上山佐と下山佐とに分れ、上山佐には「二所大明神」、下山佐には「熊野神社」(通称熊野権現)ができた。この双方が式内社を争った。一方、式内山狭神社は上山佐の二所大明神で、同社坐久志美気濃神社はその後また分れて下山佐の熊野神社となったという説もある。明治以後上山佐の山狭神社は式にいう山狭神社の、下山佐の山狭神社は同社坐久志美気濃神社の後身という形となった。
-『延喜式神社の調査』さん-
熊野大社
祭神は、伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなこ) 加夫呂伎熊野大神(かぶろぎくまのおおかみ) 櫛御気野命(くしみけぬのみこ)。「熊野大神櫛御気野命」とは、この熊野に坐します尊い神の櫛御気野命という意です。
この御神名は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別神名であります。
『出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこかむよごと)』には、
「伊射那伎乃日真名子、加夫呂伎熊野大神、櫛御気野命」
(いざなきのひまなご、かぶろきくまののおほかみ、くしみけののみこと)」
とあり、『出雲国風土記』意宇郡出雲神戸条には、
「伊弉奈枳(いざなき)の麻奈子(まなご)に坐す熊野加牟呂乃命(くまののかむろのみこと)」とありって、伊弉諾尊の子とされている。
その神名は、クシは奇し、霊妙な、の意でミは尊称、ケは食物を表す言葉で、神聖な食物を司る神。「かぶろき」という呼称については諸説あるが、近年では、童子のおかっぱ頭、転じて童子そのものをあらわす「かぶろ」「かむろ」のことであるという説が有力。
『類聚名義抄』には「童」の訓読みを「ワラハ カフロ」と記し、
『日本書紀』允恭天皇即位前紀には、
「天皇、岐嶷より総角に至りて・・・」
とあるが、「岐嶷」には「カフロニマシマス」という古訓がつけられている。ちなみに「総角」は「あげまき」のこと。
つまり、櫛御気野命は食物を司る童子神ということになる。
記紀には登場しない神であり、伊弉諾尊の子ということから早くより素戔嗚尊と同一視された。
平安中期に書かれたとみられる『先代旧事本紀』の陰陽本紀では素戔嗚尊を「出雲国の熊野杵築神宮に坐す」としており、このころにはすでに素戔嗚尊を祀る神社と認識されていた。
神社では現在でもこの説を踏襲している。
『古事記』で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々(三貴子)のことで、スサノオはイザナギの鼻から生まれたとされる男神としている。久志美氣濃命(くしみけののみこと)は、イザナギの子であるスサノオとすれば出雲で多く祀られる理由だろう。
境内・社叢
社叢 鳥居・御神燈
手水舎 鳥居
鳥居から石段を登れば、参道が平たくまっすぐ延びる 次の石段
随神門
狛犬
拝殿 拝殿扁額
見事な拝殿欄間彫刻
本殿
本殿左手境内 式内社 同社坐久志美氣濃神社 扁額
本殿左境内社
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