式内 三屋神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 式内社 出雲国飯石郡 三屋神社
「御門屋社」『出雲国風土記』
江戸時代は「一宮大明神」
読み:古 ミトヤ、現 みとや
所在地 島根県雲南市三刀屋町給下字宮谷865
旧地名 出雲国飯石郡
御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと) 素盞嗚尊(すさのおのみこと) 稲田姫命 脚摩乳命 手摩乳命
御神徳:農耕・医療・縁結・学業・武運・開運
例祭日 10月19日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
出雲国:大2座・小185座
飯石郡[イヒシ(イヒス)]:5座(並小)

近代社格制度 旧郷社

創建     年代不詳だが記録では、天平5年(733)2月30日「御門屋」『出雲国風土記』
本殿様式   大社造銅板
拝殿 入母屋肘木造り向拝破風造

境内摂末社(祭神)

佐男神社・稲荷神社・天満宮

一口メモ

雲南市の中心地、斐伊川の東岸が木次町で、西岸が三刀屋町。高校野球で知っている三刀屋高校の北。

歴史・由緒等

出雲国風土記に「御門屋社(みとやのやしろ)」と記される古社です。その昔、大国主命の御殿が在った場所とされる由緒ある神社です。主祭神は大国主命で、出雲大社と同じ二重亀甲に剣花菱の神紋が使われ、本殿も大社造になっている。
「三屋郷、郡家の東北二十四里なり。所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御門(みと)即ち此の処にあり、故、三刀矢と云う。神亀三年(726年)に字を三屋とあらたむ。即ち正倉あり。」
(三屋の郷。郡役所の東北二十四里(12.8メートル)。天の下をお造りになった大神の御門(みと)がここにある。だから三刀や(みとや)という。神亀三年(726年)に字を三屋と改めた。ここに官庫がる。)
とあり、オオクニヌシ(大国主)ノカミがここに宮居を定め、国土経営のきっかけをつくったと伝えられ、三刀屋の地名はこれに基づくとされています。
延喜二年は902年、貞享二年は1685年です。

「雲南市観光サイト」

延喜以前は、現在地の東南、島根県内でも最も古い古墳の一つで斐伊川中流域の小平野に臨む全長約50mの前方後方墳、松本古墳の上に鎮座。
その後現在の地に移したとある。

由緒略記

当社は島根県飯石郡三刀屋町大宮給下宮谷に御鎮座の式内社であり、出雲風土記に御門屋社として神祇官に在りと記された古社である。古来から郡内の筆頭に置かれ上下の崇敬を受け、累代の祀官は常に幣頭を勤めてきた家柄である。社号の由来は所造天下大神大穴持命が八十神を出雲の青垣の内に置かじと詔うて追い払い給うてから此処に宮居を定め国土御経営の端緒を御開きになったので、その御魂が高天層に神留りましてから後出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等がこの地に大神の御陵を営み、また神社を創建してその御神地を定め神戸を置いて大神の宮の御料を調達することになったので、社号を大神の宮垣の御門としてその神戸とに因んで御門屋神社と号けたものである。出雲国内に置いて大神の神地と神戸が風土記撰上当時に置かれた場所はこの地のみで他に一カ所もないのみならず神の御門と神戸とを社号とした神社が全国に他には一社もない事は特記に値することであり、この地が出雲文化の発祥の地である事は明らかである。

社頭掲示板
-『延喜式神社の調査』さんより-

境内・社叢


鳥居

  
出雲国風土記標柱        鳥居

  
鳥居扁額                  手水舎


随神門

   
狛犬

  
拝殿

  
拝殿扁額                 本殿


説明がないので分からないが、荒垣で大切に祀られているので、古社地にあった磐座では?

地名・地誌

三刀屋(みとや)

かつては、出雲国飯石郡三刀屋郷
式内三屋神社なのでかつては御門屋社で、三屋と書いたのだろう。
あるいは、想像だが、出雲の大河、斐伊川(ひいかわ)は、島根県仁多郡奥出雲町の船通山を源流とし、雲南市で久野川・三刀屋川を合流し、宍道湖・大橋川・中海・境水道を経て、鳥取県境港市と島根県松江市の境界から日本海に注ぐ。
三刀屋は斐伊川と水系の三刀屋川、久野川の3つの川が合流する平野部である。分からないが
出雲神話で斐伊川をヤマタノオロチ(八岐の大蛇)としている(安来説もある)。三屋はスサノオが放ったその3つの矢か、暴れる川がオロチの八岐のうちの三岐なのか。。。

政庁の御門屋が三屋、三刀屋となったようである。

三刀屋町は、島根県の東部に位置していた町である。2004年(平成16年)11月1日に周辺の5町村と合併して雲南市となり、消滅した。

三刀屋城は、山陰と山陽とを結ぶ街道沿いに位置する交通上の要衝で、尼子方の拠点として尼子十旗の一つに数えられた。
三刀屋城の歴史は旧く、承久3年に三刀屋郷の地頭職に任じられた諏訪部扶長が築城したと伝わる。その後、扶長の末裔が三刀屋氏を称し、天正16年に三刀屋久扶が領地を没収されるまで、同氏が拠った。
慶長5年の関ヶ原の戦いにより、毛利氏が周防・長門二ヶ国に減封されると、替って封じられた堀尾氏が入城した。堀尾氏は当初、三刀屋城を改修しようと考えていたが、一国一城令により廃城となり、松江城へ移ったとされる。 当時改修中の石垣が今でも現存しており、その大きさから、堀尾氏が松江城ではなく、三刀屋城を本拠にしようとしていたと言う説がある。

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

「延喜式神社の調査」さん、雲南市観光サイト


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