式内 石津太神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社号 式内社 和泉国大鳥郡 石津太社神社
読み:古 イハツタノオホ、現 いわつた
江戸時代 「戎」
延喜式神名帳 式内社 和泉国大鳥郡 石津太神社
読み:イハツタノオホ

所在地 大阪府堺市西区浜寺石津町中4丁12-7
旧地名 和泉国大鳥郡
御祭神
蛭子命(ひるこ のみこと)=ゑびすとも読む
八重事代主命
天穂日命(石津連の祖神)

配祀 天照大神(靱大神宮)
合祀 建御名方富命

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
和泉国:62座 大1座 小11座
大鳥郡[オホトリ]:24座 大1座 小23座
式内社

近代社格制度  旧村社

創建       伝 孝昭天皇7年(紀元前469年)
本殿様式 一間社流造・一間社春日造
例祭日
例祭 10月5日に近い土曜日
、12月14日 「泉州の奇祭」

境内摂末社(祭神)

磐山稲荷社、八幡神社、白蛇社

文化財

北本殿・南本殿・拝殿・一の鳥居・二の鳥居 堺市文化財

一口メモ

国道26号線 浜寺石津町東2丁(交差点)を西へ入り、次の交差点を南へ左折する。500 mで右折すると350 m。鳥居の前には紀州街道が南北に走っている。

歴史・由緒等

同市堺区石津町の石津神社(いしづじんじゃ)とともに、式内小社「和泉国大鳥郡 石津太神社」の論社であり、どちらも「日本最古の戎社」を称している。

この地は元は浜辺であり、伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石を置いたという。蛭子命が漂着した場所を「石津の磐山」、「五色の石」を置いた場所を「石津」という。鳥居の前の交差点に「五色の石」を地下に埋めたとされる場所があり、その場所を示す地上部分に石が置かれている。
孝昭天皇7年8月10日、勅命により蛭子命を祀る社殿を造営し、八重事代主命・天穂日命を合祀した。平安朝以後、朝廷の崇敬を受け、幾度の御幸の記録もある。かつては広大な社領を有していたが、元和年間以後、数度の兵火により社殿を焼失した。豊臣秀吉が大阪城を築城した際、裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金を寄進した。明和5年、神札頒布について係争していた西宮神社(西宮戎)と和解した。全国に崇敬者があり、明和6年には江戸湯島天神、坐摩神社で出開帳をしている。
石津川北岸の大阪湾手前の河口には、葦舟に乗った蛭子命(戎大神)が漂着したと伝えられる場所があり、現在は御旅所として祀られている。
明治5年(1872年)に村社に列格した。明治41年、近隣の諏訪神社を合祀した。

江戸時代前期に造営された本殿が二殿あり、蛭子命・八重事代主命・天穂日命を祀る北殿は一間社流造、建御名方富命・天照大神を祀る南殿は一間社春日造である。宝暦年間に造営された両殿に共有する割拝殿は入母屋造となっている。
-「延喜式神社の調査」さん、ウィキペディアより-

『泉州志』(在下石津村河側)、『和泉志』(在下石津村)、『神祇史料』は当社を式社とする。
上石津にある石津神社とともに戎神を祭ってある。「延喜式」に「石津太神社一座」とあり、どちらかが本社であり、御旅所であったのであろう。

私見だが、御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。
御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。
したがって、私見ではあるが、当社の方が浜に近く、伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石を置いたというので、浜より遠い東の石津神社が御旅所ではないかとも思う。

境内・社叢

  
社号標             鳥居扁額(三条実美が参拝時に書いたとされている)

   
入口狛犬(まだ新しい)


社頭掲示板


手水舎                         

  
拝殿                 本殿

  
境内社 八幡宮              白蛇社

  
境内社 磐山稲荷社


楠の大樹と境内社


かつての鐘楼だろうか?

地名・地誌

地 図

交通アクセス・周辺情報

参 考

「延喜式神社の調査」さん、他


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