八重垣神社(豊岡市日高町栗栖野)
Contents
概 要
社号 八重垣神社
村社 三柱神社境外社 八重垣神社
読み:古 、現
所在地 兵庫県豊岡市日高町神鍋字長者ヶ森851
旧地名 但馬国気多郡太多郷
御祭神 速素盞鳴命(すさのおのみこと)
例祭日
社格等
近代社格制度 無格社
旧村社三柱神社境外社
創建 年代不詳
本殿様式
境内摂末社(祭神)
なし
一口メモ
神鍋山の南麓近い栗栖野区の中心部に鎮座しているので、区の村社だろうと思ったが、栗栖野区の村社は三柱神社で、三柱神社は区域の西北、万場と山田をつなぐ道沿いの小高い丘に鎮座。
歴史・由緒等
創立年月不詳。明治2年9月久美浜県へ届出。境内62坪
『国司文書・但馬故事記』
人皇三七代孝徳天皇の大化三年(647)、多遅麻国気多郡高田邑において、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管(つかさど)る。(中略)
鞘柄(さやつか)*1は栗栖氏これを調進し、
(中略)
栗栖氏は宇麻志麻遅命の末裔なり。
大化四年秋八月 矢作連その祖経津主命を矢作丘に祀る。栗栖連その祖宇麻志麻遅命を栗栖邑に祀る。矢作神社・栗栖神社是れなり。
(中略)
人皇四十代天武天皇の十三年冬十月十四日、地震(ナヰ)、気多郡火を噴き、人畜多く死し、止美神社(戸神社)・太多神社・矢作神社・栗栖神社等震災に被る。
人皇四十一代持統天皇三年閏八月、(中略)
兵主神を久刀村の兵庫の側に祀り(式内久斗寸兵主神社:豊岡市日高町久斗)、
高負神を高田丘に祀り(式内高負神社:〃 夏栗)、
大売布命を射楯丘に祀り(式内売布神社:〃 国分寺)、
軍団の守護神と為し、軍団守護の三神と称す。
また将軍田道公を崇敬し、神魂を止美丘に斎き祀り、これを戸神社と称す(名神大戸神社:同 十戸)。
且つまた楯石連小禰布に命じて、楯石連大禰布命を楯石丘に祀らせ(楯石神社:〃 袮布)、太多公をして、多他別命を多他丘に祀らしむ(〃 太田から栃本まで)。
その他矢作神社・栗栖神社等を旧に依り、これを復す。
以上、『国司文書別記 但馬郷名記抄』の太多郷に栗栖とあり、栗栖神社は当然、栗栖野区内にあったであろうが、当区内西の山側にある三柱神社が村社となっており、当社はその三柱神社境外社だから、栗栖神社はやはり三柱神社か?
『西気村誌』
神鍋山の麓なる西方の畑中に、字長者ヶ森と称する一塚あり。その頂上に神社あり。八重垣神社と称え、その一面の森林なるは、元太古の時代に、当地方の主長たりし一豪族の居住せし跡地なりと、この豪族一家の名なる長者と称す。故に字名も長者ヶ森と称せしなり。
境内・社叢
社叢 鳥居
境内 立派な石灯籠
地名・地誌
『国司文書別記 但馬郷名記抄』(975・平安時代)
太多郷
止美(トベ)・己呂訶伎(コロガキ)・漆垣・山守部・石作部・太多村・壬生部・稲葉・巨智部(コチ)・秦部・的部・錦部・栗栖・太刀宮・田口・羽知
太田文(1285・鎌倉時代)
太多郷
十戸・此垣・漆垣・山宮・石井・太多・栃本・東河内(ヒガシコウチ)・水口(ミノクチ)・稲葉(イナンバ)・萬却(マンゴウ)・山田(ヤマタ)・萬場(マンバ)・名色(ナシキ)・栗栖野(クリスノ)・庄境・久田谷・田口(タノクチ)・羽尻
※漆垣は現存せず
察するに平安時代までは
壬生部・稲葉・巨智部(コチベ)・秦部・的部・錦部・栗栖の順で考察するに、巨智部は今の東河内、壬生部(みぶべ)は水口、的部は万場、錦部は名色、栗栖は栗栖野で間違いなかろう。
とすれば、栗栖野の村社が三柱神社であり、当社はその境外社らしいが、村の中心部にある当社こそ栗栖神社ではなかろうか?
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