式内大 宇奈多理坐高御魂神社
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概 要
社 号 社名 宇奈太理坐高御魂神社
境内案内には「宇奈多理坐高御魂神社」。
式内社 大和国添上郡 宇奈太理坐高御魂神社 大 月次新嘗 論社
読み: 古 ウナタリノタカミムスヒ、現 うなたりにいますたかみむすび
所在地 奈良市法華寺町600
旧地名 大和国添上郡
御祭神 高御魂尊(たかみむすびのみこと・中座) 天太玉命(あめのふとだまのみこと・東座) 思兼命(おもいかねのみこと・西座)
例祭日 10月10日
社格等
論社であることが有力なので参考まで
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座 大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
添上郡(そえがみ):37座(大9座・小28座)
式内大社(月次相嘗新嘗)
近代社格制度 旧村社
創建
本殿様式 本殿三間社・流造・桧皮葺 (国指定重要文化財)
境内摂社(祭神)
天鈿女社・猿田彦社・手力雄社・大宮媛社・豊岩窓社
文化財
本殿三間社・流造・桧皮葺 (国指定重要文化財)
一口メモ
平城京跡のそば、平城京跡東院庭園の裏(北)に鎮座する。何か関係がありそうな気がする神社で、とくに行きたかった神社の一つ。法華寺の近くをさがし回るが、このあたりは道が狭く、行き方が分からなくて苦労した。普段はフェンス越しで入れないが、重厚にして堂々たる本殿を脇から見ることができる。
後で分かったが、ちょうど放送大学奈良学習センター面接授業で「平城京の研究」奈良女子大学教授 舘野和巳先生を受講の合間に参拝したが、偶然にも舘野和巳先生は「宇奈太理神社の位置」を執筆されていたのである。
歴史・由緒等
祭神 高御魂尊(タカミムスビノミコト)は、『日本書紀』では高皇産霊神と書かれ、『古事記』では高御産巣日神と書かれる。葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で登場する。
アメノミナカヌシ(『古事記』では、天之御中主神)・カミムスビ(『古事記』では神産巣日神、『日本書紀』では神皇産霊尊)・タカミムスビは、共に「造化の三神」とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。
この造化三神のうち、カミムスビとタカミムスビは、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた。
今日の世間一般では、皇祖神(天皇家の祖先神)を天照大神(アマテラスオオミカミ)とする観念が流布しているが、記紀の伝承群を精査すると本来の皇祖神はこのタカミムスヒであり、アマテラスがそこに位置づけられてくるのは、比較的記紀成立に近い時期と思われる。というのも、例えば『日本書紀』の本文では、地上世界の平定から天孫降臨に至るまで、アマテラスは系譜的な記事に名を記される以外、全く姿をみせず、天上世界はタカミムスヒの主宰するところとなっている。
一方で一書(別伝)のひとつには、本文とは逆にアマテラスのみが描かれ,タカミムスヒが全く登場しないものがある。また『古事記』では,ほぼ両神が並び立って指令するのを常としている。そしてこれらのうち、タカミムスヒを中心とする伝承の方が、より古いタイプと認められている。そのほか、宮中の祭祀のあり方など様々な徴証から、天皇家の本来的に持ち伝えていた祖先伝承では、タカミムスヒが祖先神とされていたことが推測される。
なお別名の高木神は文字通り巨木を意味し、その名の用いられた話からすると雷を使役する神。巨木であること自体、植物の生成力の大いに発揮された結果であり、雷にも穀物を生育させる力があることから、植物の生成力を神格化した「むすひ」の神と習合したものと思われる。
<参考文献>三品彰英『建国神話の諸問題』,神田典城「高木神とタカミムスヒ』(古事記学会編『古事記年報』24号) (神田典城)
天太玉命
『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命、『古語拾遺』では天太玉命(あめのふとだまのみこと)
岩戸隠れの際、思兼神が考えた天照大神を岩戸から出すための策で良いかどうかを占うため、天児屋命とともに太占(ふとまに)を行った。 そして、八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ち、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせると、アメノコヤネとともにその前に鏡を差し出した。
天孫降臨の際には、瓊瓊杵尊に従って天降るよう命じられ、五伴緒の一人として随伴した。『日本書紀』の一書では、アメノコヤネと共にアマテラスを祀る神殿(伊勢神宮)の守護神になるよう命じられたとも書かれている。(ウィキペディア)
【鎮座地】
『大和志』に宇奈多理坐高御魂神社法華寺村にあり、今楊梅天神と称すとあり、式内 大社の当社にあてられているが、横井町あたりに鎮座の社が当社だとの説もある。古来法華寺鎮守としてその管轄化にあったが、明治の神仏分離で紳域内の本地仏十一面観音は法華寺に移され、神社は地元村で祀られることになった。祭神は高皇産霊神・太玉神・思兼神。流造三間社本殿は室町初期の建築で、重要文化 財。『日本書紀』持統天皇の六年(692)十二月二十四日太夫等を遣わして、新羅の調を大倭菟名足外四社に奉ったとあり、『三代実録』貞観元年(859) 四月の条に「従四位下法花寺坐神従四位上」とある外、「延喜」の制では大社として月次・相嘗・新嘗と出ている。
延宝九年(1681)の『和州旧跡幽考』の項に「法華寺西南辺に楊梅の天神という社あり。此のほとりにや。楊梅の宮をたてて天皇うつり給ふて後、五位以 上を宴し給ふよし、くわしくは『続日本紀』にあり」と、光仁天皇の宝亀四年(773)二月完成したという楊梅宮は天神社のほとりではないかといっている。 「楊梅」を転じて「桜梅」となったとみられ当社を桜梅天神ともいう。
-奈良県史(神社)より-
宇奈太理坐高御魂神社略記
鎮座地 奈良市法華寺町六百番地
御祭神 三座
高御魂尊(中座)
高天原にましました神で天御中主尊と神産日尊と共に造化の三神として御徳極めて高く鎮魂の神であらせ給う。高天原に大事ある毎に主長として諸神を率いて事に当たり、常に天照大神を助け、八百万の神を指揮し給うた神
天太玉命(東座)
高御魂尊の御子、神事を掌給う神で天岩戸の祈祷のとき、その御前で太玉串を捧持され祭祀を以て天照大神にお仕え遊ばされた神
思兼命(西座)
高御魂尊の御子。数多くの思慮を一身に兼ね持ち給うたと言う意で高天原に大事あった時必ず画策して事ならなかったことは無いと言う。【由緒】
延喜式内の大社で月次・相嘗・新嘗の幣に預かっていた。古文書では宇奈足とも菟足とも書いている。武内宿禰の勧請と伝えられ「日本書紀」によると持統天皇六年(692)二月には新羅の調を伊勢住吉紀伊大倭菟名足の五社に奉るとある。その一社でこの神社の神戸は正倉院文書の天平二年(730)大振る税帳新抄格勅符抄に載っているが、何れも神名は菟名足となっている江戸時代には楊梅神社と呼ばれたこともあり、いま「うなたり社」とか「西の宮さん」とか言っているのは近郷だけでの通称の略称である。
本殿は室町時代初期の建築遺構を残し、三間社流造檜皮葺で国指定の重要文化財である。境内一帯は平城天皇の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もある。
【境内社】
みな天孫降臨に随従された神々を祀る
天鈿女命社
天岩戸の前で神楽を舞い天孫降臨に随従された女神、芸能の祖神
猿田彦命社
天孫降臨の時先頭に立って八街の邪神を祓い交通安全に導かれた神
手力男命社
天岩戸の変の時岩戸を開いて天照大神を助け申し上げた力の強い神で天孫降臨に随従された神
大宮媛命社
太玉命の御子、天照大神に仕え世を平和に導かれた神
豊岩窓命社
御門の神、天孫降臨のとき天照大神の勅を承り、思兼命、天力男命と共に豊葦原に降り給うた神『社頭掲示板』
『延喜式神社の調査』さん
●東大寺文書の今木荘「菟足社」
『延喜式』神名帳(927年)の大和国添上郡の条に記載された宇奈太理坐高御魂神社は、月次・相嘗・新嘗と官幣に預かった社格の高い大社であり、当社として比定されてきた。
しかし、これに対して、『延喜式』の宇奈太理社は当社ではなく別に存在したという有力な異説がある。
東大寺文書の寛弘9年(1012)の日付を持つ「今木荘坪付」に、「菟足(うなたり)社」が登場する。荘園の今木荘の四至を示したなかに、「北限は菟足社の北を東西に行く堤」という語句がある。
今木荘は奈良市古市町のあたりに所在して、平城宮跡からは東南に約5kmの距離である。平安時代にはここに菟足社があったことは確かだろう。現在、この地には穴栗四社大明神が鎮座する。伊栗社・穴栗社・青榊社・辛榊社の四社が4棟の春日造を1棟につらねているが、伊栗社はまた菟足社とされる。
菟足社の名前が始めて国史に登場するのは、持統紀6年(692)である。新羅の調を大夫を遣わして奉った神社に、伊勢・住吉・紀伊・大倭とともに菟名足が挙がる。
正倉院文書の天平2年(730)の「大和国正税帳」には、「菟足神戸稲伍拾捌束参把」とあり、菟足社が財源として添上郡に封戸を持っていたことがわかる。また、大同元年(806)の『新抄格勅符抄』神封部に、「菟足神十三戸、大和八戸、尾張五戸」とあり、これも菟足社の封戸の記録である。
菟足社は伊勢や住吉と並んで5社に入るような名社であり、奈良時代には神戸も与えられていた。しかし、神戸を支給するというのは、これによって神社の財政基盤を整えることであるから、平城宮内には祀られていなかったことの証明になるという。神祇官が祀ったはずだから、神祇官の予算で賄われていたはず、したがって独自の神戸はなかったということだろうか。
以上の説によれば、式内社の宇奈太理坐高御魂神社は古市の今木荘にあった菟足社のことであり、東院の宇奈太理坐高御魂神社は廃都以後に創建され、祭神が共通の高皇産霊尊ということで、社勢の衰えた本来の菟足社に変わっていつしか式内社を名乗るようになったということになる。
●『三代実録』の法華寺薦枕高御産栖日神
東院の宇奈太理社=式内社説はこのようなわけで形勢不利なのであるが、援軍となる資料が六国史にある。
『三代実録』の貞観元年(859)に「法華寺従三位薦枕高御産栖日(こもまくらたかみむすび)神に正三位を授く」という記事がある。東院の東に法華寺があるので、その周辺も法華寺という地名で呼ばれたようだ。法華寺周辺で高御産栖日神を祀る神社は現在の宇奈太理坐高御魂神社しかなく、この時に正三位を授けられたのは当社であろう。
正三位という高い神格は式内大社に相当するらしい。宇奈太理坐高御魂神社が式内大社であるのと符合し、位階授与が『延喜式』編纂以前の措置であることから、従来の説もまだ成立の余地があろう。ただ、「法華寺薦枕高御産栖日神」とあって「菟足」や「宇奈太理」ではないことで、奈良時代の菟足社が古市にあった可能性が高くなる。
●東院跡の高皇産霊尊と不比等
東院跡にある宇奈太理社が奈良時代の菟足社とは異なる可能性は高いが、同社が関心を集めるのは東院に存在するということと共に、祭神が高皇産霊尊であることが大きい。
『日本書紀』神代巻本文では高皇産霊尊は高天原の最高神であり、葦原中国に天下りするニニギノミコトの母方の祖にあたる。父方の祖が天照大神であるが、天下りを命令するのは高皇産霊尊である。天下りと国譲りのエピソードは天孫である天皇の国土統治を正当化する根拠となるが、その立役者が高皇産霊尊なのである。
このような神を祀る神社が東院に存在することが、憶測を誘う。上山春平氏は、律令の作成、平城京の造営、日本書紀の編纂といった8世紀初頭の国家事業を主導した藤原不比等を高皇産霊尊に投影する。
東院の東に宮に寄り添うように不比等邸があった。東院は、聖武天皇が首皇子と呼ばれた時期に宮殿を構えていた可能性があるが、首皇子の祖父として最大の後見人であった不比等は、目の届く範囲に我が孫を置いて手厚く保護していたのだろうか。
ニニギノミコトに対する高皇産霊尊と首皇子に対する不比等の立場はまったく一致する。不比等のいわば分身たる高皇産霊尊が東院の首皇子のかたわらに守護神のように祀られていた。こんな憶測も、宇奈太理の森を前にすれば、よりリアルなイメージを持ち始めるようだ。
最新の発掘調査の成果によれば、東院は当初の八町四方だった宮プランを変更して後から加えられたと推測できる。どのような事情によってプランは変更されたのか。宇奈太理社の存在が果たしてこの謎を解く手がかりを提供するかどうか。興味は尽きない。
ー奈良歴史漫歩 No.052 宇奈太理の森さんよりー
参考 上山春平『埋もれた巨像』 水林彪「平城宮読解」 舘野和巳「宇奈太理神社の位置」 井上和人「平城宮東院地区の造営年代」
境内・社叢
鳥居 鳥居扁額
社号標 拝殿
拝殿 本殿・摂社
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
平城京跡
参 考
奈良歴史漫歩 No.052 宇奈太理の森、さん、『延喜式神社の調査』さん、ウィキペディア
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