洛南・伏見 京都市 旧村社 京都(山城国)

久我神社(式内 久何神社)

概 要

社 号 式内 久我神社
読み:こが
江戸時代には森大明神とも
延喜式神名帳 式内社 山城国乙訓郡 久何神社
読み:コガ
所在地 京都市伏見区久我森の宮町8-1
旧地名 山城国乙訓郡久我村
御祭神 建角身命(たけつぬみのみこと) 玉依比売命(たまよりひめのみこと) 別雷神(わけいかづちのかみ)
元は山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神 興我萬代継神(関係社 式内 神足神社)

例祭日 4月第1日曜日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
山城国 式内社122座 大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
乙訓郡(オトクニ) 19座(大5座・小14座)

近代社格制度 旧村社

創建     延暦3年(784)
本殿様式   流造 桧皮葺

境内摂末社(祭神)

春日神社・稲荷神社・八幡宮・天満宮・清正社・歯神社(祭神天神立命)

文化財

本殿 京都市登録文化財
クスノキ 京都市の保存樹

一口メモ

羽束師鴨川の神川神社から北北東へ府道を進む。神社の社叢らしい杜が見えるが、周囲は宅地化が進み、住宅地内の袋小路を行ったり来たりしながら幼稚園のそばから神社に辿り着いた。鳥居の反対側が住宅地の細い道が正面の参道らしい。

延喜式神名帳に同名論社 賀茂別雷神社境内摂社 式内久我神社と式内 久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町47)があるが、そちらは旧愛宕郡で当社は乙訓郡。

歴史・由緒等

由緒

当社は、八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された頃(784年延暦3年)、王城の艮角の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である。
別雷神・建角身命・玉依比売命の三柱を御祭神とし賀茂両社と胴体であり、古来鴨森大明神とも号し久我の郷人をはじめ諸人の平和安全方除け発展を守護する神として御神徳が厚い。
また久我の杜といって久我の渡りと共に歌にもよまれている。

「社頭掲示板」

久我神社略史

神社の旧記によれば、八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦3年(784)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になった(秘伝神書抄)と伝えられ、以来千二百年の星霜を経た延喜式内社であり、久何神社とも号する。
一説には当社は往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神、興我萬代継神(三代実録)を祀った、本市における最も古い神社の一つであり、久我氏の衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないか。また、他の説では、起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が大和から木津川を経て、この久我国(葛野乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居をすえ、祖神を祀ったのが、当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地に鎮まったと考えられる。
これらの事から、いずれにしても、歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことができるのである。尚、興味あることとして当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では伝承されている。

「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年

境内・社叢

  
鳥居                   鳥居扁額

  
手水舎                  神橋


割拝殿

   
狛犬

  
本殿 (京都市登録文化財)


現在の本殿は天明4年(1784)に再建された。棟札(むなふだ)によると,大工棟梁は小嶋弥惣太源久清で,播磨の宗左衛門と利兵衛が肝煎(きもいり)として造営に携わっている。

建物は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で,屋根は当初檜皮葺であったが,現在は銅板で覆っている。身舎(もや)内部は内陣と外陣に分かれている。妻飾などの彫刻がやや派手だが,これは播磨の大工が造営に関与しているためとみられる。

当社には,造営棟札の他に普請(ふしん)願書(がんしょ)の控えや板製の建地割図(たてじわりず)が現存する。建地割図は,現本殿の計画図とみられ,墨で建物の正面図と側面図が描かれている。

この本殿は,造営に関する史料がよく残っており,建築年代が明らかである。播磨の大工の関与が認められる比較的規模の大きな社殿で,保存状態も良好である。

  
本殿左境内社 春日神社、稲荷神社 本殿右境内社 清正公社、八幡宮、天満宮

  
境内左境内社   (不明)         社頭左境内社 歯神社(はがみのやしろ)

  
礎石                   境内のクスノキ 京都市の保存樹

もとは社殿造営時に用いられた礎石で、その後、これを盗んだ者があった。だが、その身に神異が起こる。その後、川中に埋もれていたものを、太平洋戦争の戦勝記念にこの地に戻されたという。
「京都風光」さんより

地名・地誌

久我(こが)

久我で「くが」ではなく「こが」と読む。1950年(昭和25年)まで乙訓郡久我村。1950年(昭和25年)12月1日(2町3村) 久我村・羽束師村が京都市伏見区に編入。

地 図

京都市伏見区久我森の宮町8-1

交通アクセス・周辺情報

府道123号線

参 考

「延喜式神社の調査」さん、他

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