一宮 大社町(出雲郡) 別表神社 名神大社 島根(出雲国)

出雲国一宮 名神大 出雲大社

概 要

社号 出雲大社
式内社(名神大) 出雲国出雲郡 杵築神社
読み:古 キツキ、現 いずも
明治4年に出雲大社[いずもおおやしろ]と改称

所在地 島根県出雲市大社町杵築東195
旧地名 出雲国出雲郡杵築郷
御祭神 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)

例祭日  神在祭など

社格等

古代社格制度
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
出雲国 187座(大2座・小185座)
出雲郡(イツモ) 58座(大1座・小57座)
式内社(名神大)

『出雲国風土記』 「企豆伎社」

中世社格制度 出雲国一宮
近代社格制度 官幣大社 勅祭社
近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった
社格制度廃止後 別表神社

出雲国神仏霊場一番(20社寺)

創建     神代とされる
659年(斉明天皇5年) – 出雲国造に命じて大社を造営(『日本書紀』)。

一口メモ

出雲の荒神谷遺跡・加茂岩倉銅鐸・西谷古墳と合わせて出雲大社にお参りした。2009.2.14 2014.3.9

歴史・由緒等

概要

式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社。伝承の内容や大社の呼び名は様々だが、共通していえることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。

古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。もともとは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列している。

出雲大社は「天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、所造天下大神宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)、杵築大社(きずきのおおやしろ)ともいわれている。

陰暦の10月を神無(かんな)月という。全国の神々がみな出雲大社に集まり、国々では神さまが留守になるので、むかしから10月を神無月というのだという。そこで出雲では全国の神々が来られるからこの月を神有(在)月とよんでいる。この言葉は室町時代の辞書『下学集』に見えているので、かなり古くからこういう信仰が人々の間にはあったと思われ、また十月という文字を組みあわせると「有」という字になるというので、大社の古い手箱の散らし紋にも、亀甲紋の中に「有」の字が描かれている。

祭神

大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。

祭神「大国主命」は「大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)」などの別名で呼ばれている。

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。

歴史

創建

「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。 「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものであるが、
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命を祀らせよう」と述べた。
(『日本書紀』神代下第九段一書第二)

『出雲国風土記』の杵築大社
八束水臣津野命の国引き給ひし後に、天(あめ)の下所造(したつく)らしし大神の宮奉(つかへまつ)らむとして、諸(もろもろ)の皇神等(すめからたち)、宮処(みやところ)に参集(つど)いて杵築(きづ)きき。故、寸付(きづき)と云ふ。神亀三年、字を杵築と改む。

建築様式

わが国最古の神社建築を誇り、古来より伊勢神宮と並び称されてきました。神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。

出雲の御崎山の記述
高さ三百六十丈、周り九十六里六十五歩。西の下に所謂(いわゆる)天(あめ)の下所造(したつく)らしし大神の社坐(やしろま)す。

*1丈は約3.03メートル

要約
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡(タテヌヒ):9座(並小))

垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)

これは兵庫県豊岡市の久々久比(ククヒ)神社や養父市八鹿町の和奈美神社、鳥取部の伝承と同じ。

斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)
是歳、出雲国造に命じて、神の宮を修厳(つくりよそ)はしむ。狐、於友(おう)郡の役丁(えよぼろ)の執(と)れる葛(かつら)の末を噛(く)ひ断ちて去(い)ぬ。又、狗(いぬ)、死人の手臂(ただむき)を言屋(いふや)社*1に噛ひ置けり。
注:熊野大社のことであるとの説もある。

*1 揖夜神社(松江市東出雲町揖屋)とされる

境内・社叢

出雲大社公式ページより

 

  
神門通りの大鳥居
(鉄筋コンクリート製)(第一鳥居) 神戸川橋北詰    勢溜の正面鳥居(木製)(第二鳥居)

  

参道                   荒垣外末社 祓社(はらえのやしろ)

祭神 祓戸四柱神(はらえどよはしらのかみ)
祓戸四柱神とは、瀬津比神(せおりつひめのかみ)、速開都比神(はやあきつひめのかみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比神(はやさすらひめのかみ)
出雲大社に参拝する人々は、まずここで身心を祓い清めていただきます。『神社公式サイト』

  

神橋                   松並木の参道の鳥居(鉄製)

荒垣内手水舎(さすがにすごい参拝者)

  

荒垣手前左 牛像             馬像

「かねおまさん」と呼ぶそう。子宝を授かる安産の神様とのこと。

大国主と因幡の白うさぎ銅像

  

出雲大社の神域の荒垣正門        拝殿前の銅鳥居(第三鳥居)

荒垣 「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としている。この碧銅の鳥居は、寛文六(1666)年六月毛利輝元の孫綱広の寄進によるもの。

  
神楽殿(拝殿)              瑞垣内

  

八足門                  観祭楼及び東廻廊

楼門

  
本殿                   背面

本殿様式   大社造

玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。

大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。 これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に作られた。

境内摂社(祭神)

荒垣内摂社

「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としている。

本殿瑞垣内

  

御向社(みむかいのやしろ)(写真左)

式内名神大社 同社坐大神大后神社(大国主の正后・須勢理毘賣命)
天前社(あまさきのやしろ)(写真右)

式内社 同社坐伊能知比賣神社(蚶貝比賣命・蛤貝比賣命)
大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。

筑紫社(つくしのやしろ)

式内社 同社坐神魂御子神社(大国主の妻で宗像三女神の一人、多紀理毘賣命)
門神社(もんじんのやしろ) 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。

神楽殿

  

拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。正面破風下に張られた大注連縄は、長さ13m、周囲9m、重さ5tの日本トップクラスである。神楽殿では婚礼なども執り行われている。

本殿瑞垣外

素鵞社(そがのやしろ)  式内社 出雲神社(素戔嗚尊)
父(または祖先)の素戔嗚尊。本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社
釜社(かまのやしろ)  (素戔嗚尊の子の宇迦之魂神)
氏社(うじのやしろ)  2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)
御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。
十九社(じゅうくしゃ) 東西に2つあって八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。

荒垣外摂末社

命主社(いのちぬしのやしろ) 式内社  神魂伊能知奴志神社(神産巣日神) 荒垣外摂社 出雲市大社町杵築東182
阿式社(あじきのやしろ) 式内社 阿須伎神社
(子の阿遲須伎高日子根命) 荒垣外摂社 出雲市大社町遥堪1473
三歳社(みとせのやしろ) 式内社 大穴持御子神社 (子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神) 荒垣外摂社 出雲市大社町杵築東
乙見社(おとみのやしろ) 式内社 大穴持御子玉江神社(子の下照比賣命) 荒垣外摂社 出雲市大社町修理免字向地920
伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)(おおなむぢいなせはぎのかみのやしろ) 式内社 大穴持伊那西波岐神社 (稻背脛命(いなせはぎのみこと)) 荒垣外摂社
天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。 出雲市大社町鷺浦102
上宮(かみのみや) (素戔嗚尊・八百萬神) 神在祭の際、神々の会議所となる。 荒垣外摂社 出雲市大社町杵築北
下宮(しものみや) (天照大御神) 荒垣外末社 出雲市大社町杵築北
出雲井社(いずもいのやしろ) (岐神(ふなどのかみ)) 荒垣外摂社 出雲市大社町修理免
因佐神社(いなさのかみのやしろ) (建御雷神)  荒垣外摂社 出雲市大社町杵築3008
湊社(みなとのやしろ) (櫛八玉神) 出雲市大社町中荒木
大歳社(おおとしのやしろ) (素戔嗚尊の子の大歳神) 荒垣外末社 出雲市大社町杵築北
祓社(はらいのやしろ) (祓戸四柱神) 参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。 荒垣外末社 出雲市大社町杵築東195

文化財

建造物

国宝
出雲大社本殿(附 内殿、棟札) – 1900年(明治33年)4月7日重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定。
重要文化財
「出雲大社」 – 2004年(平成16年)7月6日指定。重要文化財「出雲大社」として、以下の社殿21棟および鳥居1基が一括指定されている。
楼門・神饌所(2棟)・玉垣・摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿・摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿・摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿・摂社門神社本殿(2棟)
八足門(やつあしもん)・観祭楼及び廻廊・西廻廊・瑞垣
摂社素鵞(そが)社本殿・摂社氏社本殿(2棟)・末社釜社本殿・末社十九社本殿(2棟)
宝庫・会所・銅鳥居

美術工芸品

国宝
秋野鹿蒔絵手箱

重要文化財
赤糸威肩白鎧 兜 大袖付
太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵)
後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日)
後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨(三月十七日)
宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)
硬玉勾玉
銅戈
島根県出雲大社境内遺跡(旧本殿跡)出土品 柱根6点など計70点

無形文化財
選択無形民俗文化財「出雲の火鑚習俗」

国旗掲揚台 — 神楽殿南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗が掲げられている。旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgに達する。通常は朝掲揚され夕方に奉降されるが悪天候時にはこれを行わない場合がある。
「一月一日」歌碑 — 神楽殿東側には唱歌「一月一日」の歌碑が建っている(同唱歌を作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造である)。

「出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱」
  
島根県立古代出雲歴史博物館蔵(拙者撮影)  復元模型 出雲大社境内

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まった。

本殿真裏にあるスサノオを祀る素が社が元の神社ではないかといわれる。16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もありますが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ないそうです。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もあります。  平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まりました。

現在の本殿は延享元年(1744年)に作られました。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさですが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられています。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。平安時代の「口遊」(源為憲著、天禄元年・970成立)には、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで「一番出雲大社、二番東大寺大仏、三番京太極殿」を意味し、その巨大性を示す有力な証となっています。

2009/02/15

地名・地誌

「出雲」という国名の由来は、雲が湧き上がる様子をあらわした語「稜威母(イズモ)」という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説がある。ただし歴史的仮名遣では「いづも」であり、出鉄(いづもの)からきたという説もある。

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放送大学島根学習センター 授業「山陰からみた日本古代史」大日方 克己 (島根大学・教授)資料

『出雲国風土記』和銅6年(713年)

出雲郡条

郷里
健部郷、漆沼郷、河内郷、出雲郷、杵築郷、伊努郷、美談郷、宇賀郷
神戸
神戸郷
寺院
新造院1所
神社
在神祇官社58所、不在神祇官社64所
地名
山野、河川、池、江、浜、埼、島
通道
意宇郡堺への道、神門郡堺への道、大原郡堺への道、楯縫郡(タテヌヒ):9座(並小)堺への道

地 図
島根県出雲市大社町杵築東195

周辺情報

参 考

-参考:
放送大学島根学習センター「山陰からみた日本古代史」大日方 克己 (島根大学・教授)
放送大学兵庫学習センター「建築史からみた神社の歴史と信仰」黒田龍二(神戸大学・大学院工学研究科教授)、他

 [境内摂末社]