四條畷神社

投稿者: kojiyama 投稿日:

Contents

概 要

社 号 四條畷神社
読み: しじょうなわて
所在地 大阪府四條畷市南野2丁目18-1
旧地名 河内国讃良郡
御祭神 主祭神 楠木正行
配祀 (楠木一族の将士24柱)
楠木正時、楠木正家、楠木正家子息
和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、和田紀六左衛門子息
大塚惟久、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息
金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息
河邊石掬丸、譽田(某)、阿間了願、青屋刑部
例祭日
例祭   2月12日
春大祭   4月5日
秋大祭  10月5日

社格等

式外社
近代社格制度  別格官幣社
社格制度廃止後 別表神社

創建    明治二十三年(1890年)四月五日
本殿様式 流造

境内摂末社(祭神)

御妣神社、有源招魂社、楠天神社

一口メモ

石切剣箭神社から交野市の磐船神社へ国道170号線を北へ移動中に、四條畷神社の大きな鳥居と参道が目に入ったので、立ち寄ることに。基本式内社を主体にしているが旧官幣社、別表神社等の有名神社はできるだけ参拝するようにしている。
因みに、延喜式神名帳、河内国讃良郡(さらら)は:六座 大一座 小五座
で、以下の6社が記載されている。
須波麻神社(大東市中垣内)
御机神社(四條畷市南野)
高宮神社(大社。現:高宮神社・大杜御祖神社。寝屋川市高宮)
津桙神社(忍陵神社に合祀。四條畷市岡山)
大社祖神社(現 高宮神社・大杜御祖神社。寝屋川市高宮)
国中神社(四條畷市清滝中町)

歴史・由緒等

建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民の間で単に「楠公さん」と言えば正行や当社を指す場合が多い。1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生している。
境内やその周辺には桜が多く植えられており、春は多くの花見客でにぎわう。(ウィキペディア)

由緒

当社の主祭神楠木正行公は、楠木正成公の御嫡男で、忠孝両全、情厚く、知勇にすぐれ、検非違使、左衛門尉となり、河内守をも兼ねられた。地元の人たちからは小楠公さんと慕われている。

父正成公は、延元元年五月二十五日湊川の戦で自刃された。出陣に当り、御年わずか十一歳の若さの我が子正行公と桜井の駅(三島郡島本町山崎)で今生の別れをされ、「父の死後は足利の天下になるだろうが、どこまでも正統の天皇をお守りせよ、それが父への孝行になるのだ」と遺訓を残され、身も心も我が子に伝えて出陣された。(桜井の駅にある子別れの碑は、この話に感激した英国公使パークスが最初に建てた)。

足利高氏より送られてきた父正成公の首を見た時、悲しみ余り後を追って自害しようとしたが、「父正成公と桜井の駅で今生の別れをした時の遺訓を忘れたのか」と母に懇々と諭され奮起し、不利を覚悟の上一身をなげうってあくまでも正統の天皇を守り、朝敵征伐を宿願とされた。積極的な戦法でしばしば敵を破り、正平二年十一月の瓜生野の戦い(現在の平野区瓜破西付近)では、数倍の敵を父正成公ゆずりの見事な采配によって打撃をあたえた。

敗走する多数の敵兵が、渡辺橋(現在の中央区天満橋付近)から落ちて溺れるのを正行公は救いあげ、折からの寒気に凍える者に衣薬を与え、傷の手当をして京都へ送り返された。(ナイチンゲールが、敵、味方の区別なく、傷ついた兵士を看護した約五百年も前の話であった)。
この博愛の精神が、明治になって西洋の赤十字精神が日本に入ってきた時、日本人に受け入れられる礎ともなった。

足利高氏は、度々の敗戦に驚き、腹心の高師直、師泰を総大将に八万の大軍を向かわせた。正行公は、この戦いに死を覚悟し、吉野の行宮に参内し、後村上天皇に「此度は、敵も大軍を集めて攻めて参ります。私も生きるか死ぬかの大決戦を致します。最後の思い出に天皇のお顔を拝してから参りとうございます」と申し上げた。天皇は「私はお前を自分の手足のごとく思い頼っている。決して無理なことはしないように」と仰せられ、天皇のお言葉に感泣して、先帝後醍醐天皇の御陵を拝し、次いで如意輪堂に行き一族一四三名の名を留め、

『かへらじと かねて思へば あづさ弓
なき数に入る  名をぞとどむる』

の辞世の歌を記して出陣された。

正平三年正月五日三千の兵を率い枚岡の往生院に本陣を置いた正行公は、一挙北進し、深野池の東野崎に構える高師直の先陣を撃ち破り、四條畷に進出し、正行軍は、全軍一丸となって突き進み、その奮闘に敵勢はたじろぎ、一度は、師直の本営に迫り師直を討ち果たしたかと思ったが、上山某なる替玉であった。その後激戦は続いたが、多勢に無勢、兵力不足はいかんともしがたく、残るは三〇名足らずとなった。ご自身も重傷を負い、後方との連絡も経たれ、ついに二十三歳を一期として、深野池の東北、葦の茂れる所にて、弟正時公と差し違え自刃された。(このところをハラキリといった。古戦田なる地名も三カ所あった。騎士道の国英国のイートンパブリックスクールの壁には、小楠公四條畷奮戦の図が掲げられているとのこと)。

小楠公の御墓所は当社参道を下り西へ約一キロ、往時深野池の堤防であった所にある。正行公は大東市字ハラキリにおいて自刃されたが、ご遺体は直ちに現在の場所へ移され南無権現と書いた小碑を建て二本の楠を両脇に植えて墓とした。その楠は現在幹廻り十メートル以上の大木に成長し、大阪府の天然記念物に指定されている。

明治維新の後、住吉平田神社の神主三牧文吾氏らは小楠公自刃の地四條畷に、神社創建を熱心に願い出、その後再三懇請し、明治二十二年六月に、当時大阪府知事であった西村捨三氏より明治天皇に神社創立並に、社号の願出をし、有志の創立願いが、明治二十二年六月二十九日旨聞き届けられ、明治二十二年十二月十六日に明治天皇より神社創立の勅許が下り、『四條畷神社』の社号がくだされ、別格官幣社(主に国家の忠臣を祀る)に列格された。地元の人々は、土地、金品を寄進し、土を運び石を積んで奉仕し、立派な御社殿が完成し明治二十三年四月五日御鎮座祭が斎行された。明治天皇は、父正成公に劣らぬ所の忠節を嘉せられ、御祭神正行公には明治三十年四月六日に従二位が、追贈せられた。

平成元年には、御本殿を始め拝殿等の修復、社務所の新築、境内地の諸施設の整備拡張を行い、平成二年十月五日には、御鎮座百年奉祝大祭が斎行された。

「大阪府神社庁第三支部」

河内国讃良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。
1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大した。
同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、1889年(明治22年)に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、翌1890年(明治23年)に住吉平田神社の南隣の地に創建した。
当社創建以降、所在地の讃良郡甲可村(南野村ほか6ヶ村合併による)には「四條畷」と付く施設が次第に増え、「四條畷」は甲可村の別称のようになって行った。
1932年(昭和7年)に甲可村はついに四條畷村に改称するに至り、これが現市名にまで継承されている。(ウィキペディア)

境内・社叢

  
鳥居(国道170号に一の鳥居がある)        手水舎

  
境内                          拝殿


本殿

   
左手摂社  御妣神社               境内社 有源招魂社、楠天神社

地名・地誌

讃良郡さららのこおり、ささらのこおり、ささらぐん)

和名類聚抄には「佐良良」という訓が記載されており、古くは「さらら」と読んだ。持統天皇の名「鸕野讃良」の「讃良」は讃良郡に由来するものであり、「うののさらら」と読まれる。「さらら郡」には更占郡などの表記もある。のちに「さら郡」という読みが現れ、近世以降はもっぱら「ささら郡」と読まれる。
近世以降の讃良郡は、現在の大東市の一部(旧住道村・四条村)、四條畷市全域(旧甲可村・田原村)、寝屋川市の一部(旧豊野村・寝屋川村)に相当する。
1878年(明治11年)の郡区町村編制法では、茨田・交野・讃良3郡合同の郡役所が茨田郡三矢村(現:枚方市三矢町)に置かれた。1896年(明治29年)4月1日、茨田・交野・讃良3郡が統合されて北河内郡が設置された。

地 図

大阪府四條畷市南野2丁目18-1

交通アクセス・周辺情報

JR西日本片町線(学研都市線) 四条畷駅から、下記バス停まで約5分、下車直ぐ

国道から参道を進み、鳥居手前を右に坂を登ると神社駐車場

参 考

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