久美浜町(熊野郡) 京丹後市 官社(式内社) 旧郷社 京都(丹後国)

式内 三嶋田神社

概 要

社 号 式内 三嶋田神社

式内社 丹後国熊野郡 三嶋田神社
読み:古 ミシマタ、現 みしまだ
所在地 京都府京丹後市久美浜町大字金谷字今ゴ田791
旧地名 丹後国熊野郡川上郷
御祭神 大山祇命(おおやまつみ のみこと)
例祭日 4月15日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
熊野郡(クマノ):11座(並小)
式内社

近代社格制度 旧郷社

創建     孝霊天皇のとき武諸隅命が創祀
本殿様式   入母屋造クレ葺

境内摂社(祭神) 子安神社

一口メモ

国道312号線を南東へ3.5Kmほど進み、府道706号線を3Kmほど南下。先の703号線を東へ300mほど進むと、まっすぐな道にそこだけ鎮守の森がある。他の川上の式内社は村の山に鎮座しているのに、この神社だけが周囲は平坦な田畑の真ん中だ。旧川上村の中心にあり矢田神社、丸田神社等と同時期に、それら村社に対して郷社として建てられたのだろう。
西側入口の鳥居をくぐると、南向きの社殿がある。鳥居は大きな鳥居の北側にやや小さな鳥居が2箇所ある。官司の勅使用と一般用だろうか。

歴史・由緒等

由緒

山下仙一郎氏編の『三嶋田神社由緒』に「往古川上谷に三ヶ所の嶋あり、その一は武漁嶋(海士付近)、その二は婦嶋(島)、その三は生島(金谷)なり。人皇七代孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉り、武漁嶋に中津綿津見命・中筒男命を祀りて矢田神社と稱し奉り、田村庄矢の谷丸田山に下津綿津見命・底筒男命を祀りて丸田神社と稱し奉る。
而して人皇九代開化天皇の御宇に至りて河上の摩須が当社を崇敬した。云々」とある。

『丹後舊事記』には、「垂仁天皇の朝川摩須郎勸請なりと国名風土記に見えたり」とある。川上(河上)摩須は古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須良女。生子比婆須比賣命、云々」の河上摩須であり、本居宣長『古事記傳』で「河上之摩須良女、河上は和名抄に丹後国熊野郡川上の郷あり是なり」とのべている。また『丹後舊事記』は河上摩須について「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は摩須良女を娶る」と記している。須郎(須良)=(須田)と三嶋田神社は数百メートル離れて向き合っている。

當社の別當として神宮寺があった。神社の東一町の地にジンゴ(神宮)の森がある。元境内にあり明治維新後境外に移された石佛の背面に「永享12年庚申6月19日、神宮寺六十六部供養-源貞總」と刻まれている。永享12年は1440年で施主源貞總は當時の畑(金谷と同一)城主である。神宮寺は須田村大雲寺の末寺であり、『天龍山大雲寺記録』には「當寺末寺三ヶ寺有、一ハ猪ヶ嶋神宮寺トテ三嶋明神ノウラニアリ」とある。神宮寺は廃絶して字海士の寳珠寺に合併したと傳へている。現に金谷・畑の兩部落に於いて10数戸の寳珠寺檀家があるが、確證はない。

暦應元年(1338)戦功により足利尊氏から1萬餘石を與へられ、畑村(金谷・畑はもと同一の大字であった)に居城をかまへた野村氏は、天正10年(1582)豊臣秀吉のために滅亡するまで三嶋田神社を崇敬した。
野村氏は畑に居城を構へるや荒廃していた大雲寺を再興し、二百石の荘園を寄付している。大雲寺の末寺である神宮寺も野村氏との関係が考えられる。

享和3年(1803)の金谷村の記録によれば、當社はもと十ヶ村(市野々・布袋野・畑・金谷・須田・新庄・品田・市場・出角・芦原)の氏神であったが、その後七ヶ村(市野々・布袋野・畑・金谷・須田・市場・出角)の氏神となり、享和3年故あって分離し・現在は畑・金谷・須田三部落の氏神となっている。

延寶6年(1678)2月再建の棟札、文政12年(1829)再建の棟札がある。大正2年10月神饌幣帛科供進神社として指定される。昭和8年10月21日郷社に昇格(『熊野郡誌』)。

「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁 平成7年

境内・社叢

  

社叢                   鳥居

  
鳥居扁額                 左鳥居


何か遺物らしいが不明 池だったような中にあるところを見ると厳島神社?

  
拝殿(神楽殿)               本殿・拝殿
この地域は、どこも拝殿に立派な舞殿がある。

  
本殿覆屋                 境内社

地名・地誌

地 図

京都府京丹後市久美浜町金谷791

交通アクセス・周辺情報

参 考

「延喜式神社の調査」さん、他

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