網野町・弥栄町・丹後町(竹野郡) 京丹後市 官社(式内社) 旧村社 京都(丹後国)

式内 志布比神社(網野町浜詰)

概 要

社 号 志布比神社
読 み:古 シフヒ、現 しぶひ
式内社 丹後国竹野郡 志布比神社(論社)
所在地 京都府京丹後市網野町浜詰大成829
御祭神 櫛八玉比女命(クシヤタマヒメノミコト) 鹽椎神(シオツチノカミ)
若宮大明神 豊受賀能咩命
御来屋大明神 木花開耶姫命
例祭日 10月10日

社格等

古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
竹野郡(タカノ):14座(大1座・小13座)

近代社格制度 旧村社

創建     年代不詳
本殿様式   流造

境内摂社(祭神)

稲荷神社・金比羅神社・愛宕神社・蛭子神社

一口メモ

国道178号線を北近畿タンゴ鉄道木津温泉駅前から北上し、大きく90度曲がる交差点をまっすぐ665号線へ入り、夕日ヶ浦温泉の宿が密集している場所を奥。
海水浴場の脇の岬の先端部近くに境内がある。先週すぐ近くまで来ていたのに見逃していた。車で鳥居をくぐり境内まで登れる道が付いているので、そのまま上がった。

歴史・由緒等

『丹後国竹野郡誌』

御来屋神社を志布比神社と改称の義明治三十九年九月十三日許可せらる
(神社明細帳) 祭神 櫛八玉比女命
塩推神 由緒創立不詳貞亨元甲子年九月十日再興の若宮神社を合併の義明治三十九年八月三日許可せらる
由緒 創立不詳再興延宝八庚申七月明治四年三月村社に列せらる

(社伝)

創立年代雖不詳人皇十一代垂仁天皇御宇新羅国王の皇子天日槍命九品の宝物を日本に伝へ垂仁天皇に献せらる。此九品の宝物とあるは、日の鏡、熊の神籬、出石の太刀、羽太玉、足高玉、金の鉾、高馬鵜、赤石玉、橘、合せて九品の寶物を御座船に積て来朝成し給ふ。天日鉾命の御座船を導き給ふ大神は、塩土翁の神なり。その来朝ありし所は竹野郡の北浜、筥石のほとりに着船す。
日本に始て橘を渡賜故に此辺を橘の荘と名付後に至り、文字を替て木津と書なり。天日槍命日本に渡り給て、始て鎮座ありし、處は塩比の濱の清き土地を撰び始て鎮座ありし所を宮故(くご)と名付け同所に御座を導き来朝成し賜ふ。塩土翁の神の叢祠を建て祭り置き給ふと云へり。
その後、天日槍命は、但馬国を志し、熊野郡川上荘馬次の里の須郎に暫し座して、夫より川上の奥布袋野の西の峠を越えて立馬国に越え賜ふなり。彼の九品の寶物を馬に付て此峠を越え給ふ。
彼此峠を駒越しと名付く。但馬国出石郡宮内村に鎮座まして、彼の九品の寶物を垂仁天皇へ奉献賜へり。この九品の内、橘を禁裏御所紫宸殿の庭前に植置き給へり。この橘を右近の橘と名づけ、天日鉾命、来朝の砌り導き給ふ。志布比の神の叢祠も同所に建て祭ありけれども、天日鉾命但馬国に至り彼此土地に人家日に増して、社地のほとりを穢す。故に人民度々咎を宇け依之此叢祠を志布比の浜の海のほとりに奉還し、同所に今は御来屋神社も併て祭置なり。この御来屋神社は、後醍醐天皇隠岐国に坐す特、後醍醐天皇の御守神との申伝なり、祭神は櫛屋玉姫命と云伝ふ、明治四年三月村社に列し明治四十一年四月十日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる。

『網野町誌』

志布比(しふひ)神社(式内) 浜詰字夕日鎮座
祭神 櫛屋玉比女命(御来屋神) 注「みくいや」とも。
塩土神(志布比神)
若宮売命(若宮神)
豊宇加能命(若宮神)
由緒 いずれの神々も創立は不詳であり、(「御来屋神社」を「志布比神社」と改称の義明治三九年九月一三日許可せらる)と『竹野郡誌』は書いているが、これは本来「志布比神社」が延喜式内社とされていることと矛盾する。また『竹野郡誌』は「神社明細帳」「社伝」「同社調文書」『丹後旧事記』『丹哥府志』「社蔵古文書」などを引用しているが、各文献の内容の不一致、重複が多く判断し難い。
しかし今回、志布比神社高田神官の示唆を仰いで右のように記録することができた。「志布比神社」は御来屋神社・若宮神社と三社合体の神社であり四神(若宮売神・豊宇賀能咩命同神説によれば三神)を合祀していることとなろう。

境内・社叢

  

手前に愛宕神社参道            鳥居

  

境内                   拝殿 右手境内社 稲荷神社

本殿覆屋

右手山上に愛宕神社あり

地名・地誌

地 図

京都府京丹後市網野町浜詰829

交通アクセス・周辺情報

0092

浜詰海岸

参 考

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